「タピオカ」18 タロウ
足取りもおぼつかないカヲルを、ホテルの部屋までなんとか歩かせた。
青ざめた顔をしている。なんだか、こみあげてきそうだ。
トイレを抱えてしゃがみこんだカヲルの背中をさすった。
筋肉がごつごつしてなくて、しなやかで柔らかい背中。その感触に錯覚しそうになってしまった。
「バカですよね〜、わたしも。クルミに会えるかと思うと、なんだかすごく嬉しくて。ほとんど飲めないお酒までもおいしく感じてしまって。タロウさん、ほんとにごめんなさい」
そう、心底後悔したような声でカヲルがビジネスホテルの狭いシャワールームのトイレに座り込んでいる。唾液のような吐瀉物が口元を汚し、僕は濡らしたタオルをカヲルに差し出した。
カヲルは心底すまなそうな顔をして、その長いまつげを伏せた。
「気にしないで。僕はカヲルに感謝してもしたりないくらなんだから」
そう言ってカヲルの脇の下を抱えて、ベッドまでまた歩かせた。
派手な柄の着物の足下がはだけたままの格好で、カヲルがベッドに倒れ込む。むだ毛のひとつもないつるんとした足は天性のものなんだろうか? それとも手入れのたまものか?
そんなことをぼんやりと考えていると、カヲルはしきりに浴衣の帯のあたりを指で探りはじめる。
「帯が苦しくて、でも、結び目が見つからなくて。タロウさん、見てくださいますか?」
僕は浴衣なんてわからないし、困ってしまってたけれど、それでもカヲルの指さすあたりを探ってみると、なるほど、結び目のある太めの紐を見つけることができた。
「ごめんなさい、これをほどいてくださいますか? そうすれば、帯もほどけるんです」
きつく結ばれた紐。僕はその結び方をどういうふうにすればカヲルが解放されるのかわからなかったけれど、悪戦苦闘するうちになんとかほどくことができた。
「ああ、ありがとうございます」
そう言ってカヲルが後ろ手で帯を触ってゆくうちに、浴衣の帯はするりとベッドの中を泳ぎだした。
「ああ。 ほんとにありがとう。ずいぶん楽に......」
カヲルの薄くて透明なくらいに白い胸板があらわれた。
つるんとした陶器のようなやわらかな胸。
女性のようなふくらみもない胸に僕の目が一瞬のうちにくぎづけになってしまう。
そして、目をそらす、けれど、そんな僕の狼狽ぶりはカヲルの目にはどう映っていたんだろうか?
「すみません、ちょっとのあいだでいいから......おねがい」
そう言って僕の腕の中にカヲルがなだれこんでくる。
瞬間、火花が飛んだ。
頭の中に。
小さな爆発。
そのとき細い糸が切れた。
カヲルを強く抱きしめる。
なにがなんだかわからない。
わからないままに両腕が震えた。
震えながら、その腕の中のカヲルが壊れないようにぎゅっと抱きしめて。
気がつくと僕は、カヲルをベッドの上で抱きしめながら、声を殺して泣き続けていた。
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2009年07月06日
2009年06月30日
「タピオカ」 17
「タピオカ」17 タロウ
「あたしたちにとって、雪乃は申し分のない観察者だったわ。あたしには、彼女自身がカテゴライズされてないものを求めているように見えたの。彼女はこう言ったの。それは、探せばどこかのサイトに書いてあるようなことなのかもしれない。だけど、自分にとってはゼロなんだって。何もないところからクルミの物語を書くことが、ゼロから自分の物語を作ることなんだって。自分だけの物語を作るってすごく楽しいって言ってたわ。
雪乃を呼んで、3人でホテルにこもってプレイをしたこともあったわ。
彼女はデジカメを持ってわたしたちのプレイを見てくれた。あたしたちが二人でやっていることをひとつひとつカメラにおさめていくの。ほとんど無言で、デジカメのシャッター音が聞こえる中で、あたしたちはいつものように痛みを検証していくの。ときどき、顔をこっちに向けて、とか、脚を広げて、とか、そのままの格好で窓辺に立って、とか。リクエストしながら、彼女はたくさんの写真を撮ってくれた。 撮られることで、あたしたちは証明されたの。そのあとシャワールームで、あたしたちはがまんできなくなって激しいセックスしたの。さすがにそこまでは写真には撮らなかったけれど。雪乃はシャワールームのドアからそれをじっと見てくれてた。
そうして、そのあとに雪乃の小説を読んで、あたしたちは気付いたの。
彼女が撮ったのは、絵ではなくて、言葉に変換できる(なにか)だったんだって。
あたしたちの物語は、言葉になることによってクリアになってきた。あたしとパートナーは夢中で雪乃の小説を読みふけったわ。そうそう、こんな感じ、そうか、こう思ってたんだ!って。そうしてあたしたちはエスカレートしていった。時間も遠慮も忘れて、新しいプレイのことばかり考えて、1日に何度も携帯でやりとりするようになって、結局、それでバレて自爆してしまったんだけどね」
「雪乃が、悪いことをしてしまった」
僕は、なんて言っていいかわからずにそう答える。
「とんでもない! わたしが今、こういう職業を選んでいるのも雪乃のおかげ。わたしはそれを後悔したことなんて一度もなくって、むしろ感謝してるくらい。だから、わたしがカヲルを紹介したの。いつかカヲルの物語を書いてほしいって。カヲルは雪乃とメールのやりとりをするようになって、それがすごく楽しいって言ってたわ。言葉で説明するってすごい、雪乃が言葉にしてくれるってすごいって、いつも嬉しそうだった。さっきカヲルが言ってた。カヲルの物語にとりかかることなく雪乃は死んでしまったんだって。残念だけど、残念じゃないこともあるって。出会えたこと。話せたこと。自分にアイデンティティを与えられたこと。今でもそのことに感謝してるって」
酔って眠っているカヲルの細い指を僕は静かに触ってみる。
外から見たら自信たっぷりに奇異な格好を楽しんでいるカヲルの、繊細なその指をしみじみとぼくは感じていた。
「僕はクルミに会えてよかった。 雪乃はへんな小説を書いているわけのわからない妻だったけれど。それでも、誰かにそう言ってもらえてよかった。今更だけど、そんな雪乃を知れて、僕はほんとうによかったと思っている」
そう言って僕はクルミと固く握手して、それからカヲルの肩をゆすって起こした。
さあ、カヲル、そろそろホテルに帰ろうか。
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「あたしたちにとって、雪乃は申し分のない観察者だったわ。あたしには、彼女自身がカテゴライズされてないものを求めているように見えたの。彼女はこう言ったの。それは、探せばどこかのサイトに書いてあるようなことなのかもしれない。だけど、自分にとってはゼロなんだって。何もないところからクルミの物語を書くことが、ゼロから自分の物語を作ることなんだって。自分だけの物語を作るってすごく楽しいって言ってたわ。
雪乃を呼んで、3人でホテルにこもってプレイをしたこともあったわ。
彼女はデジカメを持ってわたしたちのプレイを見てくれた。あたしたちが二人でやっていることをひとつひとつカメラにおさめていくの。ほとんど無言で、デジカメのシャッター音が聞こえる中で、あたしたちはいつものように痛みを検証していくの。ときどき、顔をこっちに向けて、とか、脚を広げて、とか、そのままの格好で窓辺に立って、とか。リクエストしながら、彼女はたくさんの写真を撮ってくれた。 撮られることで、あたしたちは証明されたの。そのあとシャワールームで、あたしたちはがまんできなくなって激しいセックスしたの。さすがにそこまでは写真には撮らなかったけれど。雪乃はシャワールームのドアからそれをじっと見てくれてた。
そうして、そのあとに雪乃の小説を読んで、あたしたちは気付いたの。
彼女が撮ったのは、絵ではなくて、言葉に変換できる(なにか)だったんだって。
あたしたちの物語は、言葉になることによってクリアになってきた。あたしとパートナーは夢中で雪乃の小説を読みふけったわ。そうそう、こんな感じ、そうか、こう思ってたんだ!って。そうしてあたしたちはエスカレートしていった。時間も遠慮も忘れて、新しいプレイのことばかり考えて、1日に何度も携帯でやりとりするようになって、結局、それでバレて自爆してしまったんだけどね」
「雪乃が、悪いことをしてしまった」
僕は、なんて言っていいかわからずにそう答える。
「とんでもない! わたしが今、こういう職業を選んでいるのも雪乃のおかげ。わたしはそれを後悔したことなんて一度もなくって、むしろ感謝してるくらい。だから、わたしがカヲルを紹介したの。いつかカヲルの物語を書いてほしいって。カヲルは雪乃とメールのやりとりをするようになって、それがすごく楽しいって言ってたわ。言葉で説明するってすごい、雪乃が言葉にしてくれるってすごいって、いつも嬉しそうだった。さっきカヲルが言ってた。カヲルの物語にとりかかることなく雪乃は死んでしまったんだって。残念だけど、残念じゃないこともあるって。出会えたこと。話せたこと。自分にアイデンティティを与えられたこと。今でもそのことに感謝してるって」
酔って眠っているカヲルの細い指を僕は静かに触ってみる。
外から見たら自信たっぷりに奇異な格好を楽しんでいるカヲルの、繊細なその指をしみじみとぼくは感じていた。
「僕はクルミに会えてよかった。 雪乃はへんな小説を書いているわけのわからない妻だったけれど。それでも、誰かにそう言ってもらえてよかった。今更だけど、そんな雪乃を知れて、僕はほんとうによかったと思っている」
そう言って僕はクルミと固く握手して、それからカヲルの肩をゆすって起こした。
さあ、カヲル、そろそろホテルに帰ろうか。
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2009年06月13日
「タピオカ」 16
「タピオカ」16 タロウ
「ごめん。わからないってのも変よね。言い方を変えると......説明できないってことなのかな?」
クルミがウォッカを飲み干した。飲みっぷりがいい。
彼女は白い頬にかかる前髪を指先で払い、それから話を続けた。
「あたしたちは、観察者が欲しかったのかもしれない。あたしたちのプレイを見てくれる人が。それはとてもシンプルな欲求だった」
ウォッカ、おかわりね、そう言ってまたクルミは話を続けた。彼女はとてつもなく酒が強いらしい。
「あたしのパートナーは痛みに興味を持っていた。 精神的な痛みや物理的な痛み。彼は、歯科医師という職業柄それをコントロールするすべも知っていた。そうして仕事として彼は、自分の感じる痛みの沸点の手前で、すべての痛みを抹殺していったの。
彼は言ったわ。自分は痛みが沸点に達する前に痛みを抹殺ししてしまう。だからその先を夢想しないではいられないのだと。
あたしはそれを聞いた時、その痛みを味わってみたいと思った。あたしならそれができると思ったし、あたししかできないような気がした。いや、むしろそれはあたしでなきゃいけない、あたしは真剣にそう思ったの。
実際に彼が与えたのは物質的な痛みというよりも羞恥だったりもするんだけど、それでも、発端にはいつも、(痛むことへの執着)みたいなものがあったような気がする。
あたしたちはいろんなことを試したわ。そういうたぐいのお店で、拘束具やバイブレーターを買ってきて。蝋燭を肌に落とす一秒前にどんな恐怖がカラダに走るかも体験した。絶頂を過ぎたあとのバイブレーターが、快感と痛みをどんなふうにミックスさせるかも。そしてその瞬間に手足の自由を奪う拘束具の中で身をよじる感覚がどんなものなのかも。
パートナーはあたしの痛みをコントロールしながら観察をしていた。ときには言葉でそれがどんな痛みなのか口にさせた。あたしの痛みはいつもパートナーの手中にあった。それを先延ばしすることも爆発させることも、すべてパートナーの意思にゆだねられていた。そうして、その中で強く繋がっていくことが、あたしたちの関係だったの。
でもね。二人で深いところに行けば行くほど、いろんなことがわからなくなってしまうの。SMの雑誌にもDVDにもいろんな情報があった。それでも、あたしたちは、自分たちが正しい場所にいるのかさえわからなくなってしまうの。
そりゃ、世間的に言うとそれはSMよね。でも、ひとつひとつの欲求はもっと複雑な心の動きでできあがっている。それをあたしたちは、はっきり説明する言葉を持たなくて。あたしたちは、その欲求がどこに向かっているのかすらわからなくなって、わけのわからない迷路に迷い込んでしまったの。
そんなとき、BL系のブログを書いている雪乃のことを知った。あたしには、聞いて欲しいことがやまほどあったんだと思う。それで雪乃にメールしたの。そして何度かやりとりするうちに、雪乃があたしたちに興味を持ってくれた。
あたしは雪乃の書く文章が好きだったし、できれば書いて欲しかったの。
雪乃の目に映るあたしたちはどうなのか。あたしそれが知りたくてたまらなかった」
カヲルはすでに意識なく自分の腕をまくらにして眠っている。天然木らしき厚みのあるカウンターの木の柔らかさに、彼はすべてを預けている。
「雪乃は。BL?やおい?ヲタク? ダンナさんの目から見たら一体どうだったの?」
「わからないんだ」 僕は敗北感にまみれてそう答える。「雪乃はそのことに関して、何も話してくれなかった。僕は、雪乃がいなくなってしまうまで、そのことを知らなかったんだ」
「......そうなの」
クルミは新しく受け取ったウォッカに口をつけた。
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「ごめん。わからないってのも変よね。言い方を変えると......説明できないってことなのかな?」
クルミがウォッカを飲み干した。飲みっぷりがいい。
彼女は白い頬にかかる前髪を指先で払い、それから話を続けた。
「あたしたちは、観察者が欲しかったのかもしれない。あたしたちのプレイを見てくれる人が。それはとてもシンプルな欲求だった」
ウォッカ、おかわりね、そう言ってまたクルミは話を続けた。彼女はとてつもなく酒が強いらしい。
「あたしのパートナーは痛みに興味を持っていた。 精神的な痛みや物理的な痛み。彼は、歯科医師という職業柄それをコントロールするすべも知っていた。そうして仕事として彼は、自分の感じる痛みの沸点の手前で、すべての痛みを抹殺していったの。
彼は言ったわ。自分は痛みが沸点に達する前に痛みを抹殺ししてしまう。だからその先を夢想しないではいられないのだと。
あたしはそれを聞いた時、その痛みを味わってみたいと思った。あたしならそれができると思ったし、あたししかできないような気がした。いや、むしろそれはあたしでなきゃいけない、あたしは真剣にそう思ったの。
実際に彼が与えたのは物質的な痛みというよりも羞恥だったりもするんだけど、それでも、発端にはいつも、(痛むことへの執着)みたいなものがあったような気がする。
あたしたちはいろんなことを試したわ。そういうたぐいのお店で、拘束具やバイブレーターを買ってきて。蝋燭を肌に落とす一秒前にどんな恐怖がカラダに走るかも体験した。絶頂を過ぎたあとのバイブレーターが、快感と痛みをどんなふうにミックスさせるかも。そしてその瞬間に手足の自由を奪う拘束具の中で身をよじる感覚がどんなものなのかも。
パートナーはあたしの痛みをコントロールしながら観察をしていた。ときには言葉でそれがどんな痛みなのか口にさせた。あたしの痛みはいつもパートナーの手中にあった。それを先延ばしすることも爆発させることも、すべてパートナーの意思にゆだねられていた。そうして、その中で強く繋がっていくことが、あたしたちの関係だったの。
でもね。二人で深いところに行けば行くほど、いろんなことがわからなくなってしまうの。SMの雑誌にもDVDにもいろんな情報があった。それでも、あたしたちは、自分たちが正しい場所にいるのかさえわからなくなってしまうの。
そりゃ、世間的に言うとそれはSMよね。でも、ひとつひとつの欲求はもっと複雑な心の動きでできあがっている。それをあたしたちは、はっきり説明する言葉を持たなくて。あたしたちは、その欲求がどこに向かっているのかすらわからなくなって、わけのわからない迷路に迷い込んでしまったの。
そんなとき、BL系のブログを書いている雪乃のことを知った。あたしには、聞いて欲しいことがやまほどあったんだと思う。それで雪乃にメールしたの。そして何度かやりとりするうちに、雪乃があたしたちに興味を持ってくれた。
あたしは雪乃の書く文章が好きだったし、できれば書いて欲しかったの。
雪乃の目に映るあたしたちはどうなのか。あたしそれが知りたくてたまらなかった」
カヲルはすでに意識なく自分の腕をまくらにして眠っている。天然木らしき厚みのあるカウンターの木の柔らかさに、彼はすべてを預けている。
「雪乃は。BL?やおい?ヲタク? ダンナさんの目から見たら一体どうだったの?」
「わからないんだ」 僕は敗北感にまみれてそう答える。「雪乃はそのことに関して、何も話してくれなかった。僕は、雪乃がいなくなってしまうまで、そのことを知らなかったんだ」
「......そうなの」
クルミは新しく受け取ったウォッカに口をつけた。
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2009年06月10日
「1Q84」とイリアス・オデッセイア
読み終えたあとに思わず「イリアスとオデッセイア」とつぶやいてみた。
ホメロスの壮大な叙事詩となにが共通するのかわからないし、トロイ戦争についても何も知らないのだけど、歌曲や叙事詩を思わせる作品だと思った。
現代社会は戦争や争いのない社会でもないし、不条理な性的虐待のない社会でもない。
憎むべき対象がカタチを変えて見えづらいだけで、必ず「それ」はあるのだ。
そうして、武器を持っていれば敵に対抗できるわけでもないし、一致団結した良心で「それ」を排除することができるわけでもない。
そういう複雑な「それ」に対抗するための軌跡が、壮大な叙事詩のように描かれているように思えた。
初期の頃の村上春樹の世界では、カップルは汗のにおいひとつしない心地よいセックスをしていた。気分のいいバーでジャズを聴きながら、自分のまわりに起こる悲しい出来事に静かに胸を痛めていた。
作風が変わったとも、メッセージが変わったとも思わない。
描いている世界が壮大なのだと思う。
あらすじを書くのは避けるが、それでも、読後の印象をいくつか覚え書きしておきたいと思う。(ネタバレと呼ばれるたぐいのモノなので、望まない方は読まないでください)
* ある種のテロを含む新興宗教や性的虐待を作者は憎んでいる。憎んでいるからこそ、それがきっちりと描かれている。「それ」を描かないことには、物語が成り立たないからだ。
* 健康的な性欲に関しては、憎んでもいないし否定もしていない。しかし、それも「もっと原始的で自然な愛」に対比するものであることには変わりない。
* それでは「原始的な欲求からあふれる愛」はすべてに対抗できる存在であるのか? そうではないかもしれないけれど、少なくとも、この物語の中では対抗するものであるような気がする。
* 今後の展開にもよるが、青豆と天吾は別の世界で出会うような気がする。
* 青豆には出会うべき人がいる。だから青豆は死んでいない。もっと強い引力が今後きっと起こる。
* タマルは魅力的な人物だ。今後もこの物語に深く関わってくるだろう。だけども彼にはどこか死の影がつきまとっているように思う。
村上春樹の作品は難解で、難解ゆえに謎解きをしたい欲求に駆られる。そうして、多くの未完の作品がそうであるように、今後の展開を予想したくなるのも否めない。
しかしもちろんそれがすべてではない。物語を読んでいるあいだ中、夢中でその世界に浸っていられる幸せをずっと感じていた。
そんな素晴らしい作品にリアルタイムで出会えた事に、やはり言いようのない至福を感じた作品だった。
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2009年05月13日
「タピオカ」15
「タピオカ」15 タロウ
「クルミ〜。おつかれさま〜」
カヲルの声に振り返ると、細面の地味な顔立ちをした女性が革ジャンにジーンズで立っていた。
化粧を落としたせいか、その顔は青白くも見える。けれど、僕はそれでもステージで見たクルミよりかはるかに親近感を感じていた。
「まずは乾杯だよね。再会を祝して、そして、私たちを引き会わせてくれた天国の雪乃にも!」
物静かに喋るカヲルが饒舌になっていたのは、たぶん酒のせいなのだろう。
「乾杯」
クルミは小さな声でそう答えて、僕たちをグラスを鳴らした。
カヲルは僕がクルミを探してくれたのだと言った。ちょっとうわずった声で、それでまた会えたからよかったと言って、それから言葉がだんだんあやふやになっていって...... そしてそのまま「ひどいよね〜。クルミってば、いつのまにかいなくなっちゃって、びっくりしたよ〜」と言いながら、カウンターにうつぶせてしまった。
「バカだよね、カヲルってばお酒に弱いんだよ」クルミが言った。「それに天国の雪乃に乾杯、なんて、不謹慎もいいとこ。ごめんね。いつもはもうちょっと分別のある子なんだけど」
「いいんです。もう雪乃がなくなって三ヶ月もたってるし。そろそろ僕もそう思わなきゃいけない頃だ」
「おくやみにも行けなくて......ていうか、まだ信じられなくて」
「信じられないのは僕も同じですよ。 でも、それでもそれを受け入れなきゃいけない。ほんと、もうそういう時期なんです」
そう言って、モスコーミュールを飲み込む。ちくちくした炭酸の感触が喉を刺激した。
「タロウさんの事、雪乃から聞いたことあった。一回会いにきてくれたとき。ダンナさんは留守番とかさせて大丈夫なの?って言ったら、優しくて、けっこう自由にさせてくれるからありがたいって言ってた」
「ははは、ふつうの男ですよ。僕だって正直、妻がひとりで遊び回るのを快くは思っていなかった。でも、それでも好き勝手に自分のやりたいことをやるのが雪乃なんだ。そっか......優しいって思ってくれてたんだな。だったら、一度でも。面と向かってそう言ってくれればよかったのにな」
鼻の奥のあたりがツンとしてきて、僕は自分が泣きそうになっていることに気付く。
慌てて話題を変えることにした。
「SMって。はじめて見ました。いや、もちろん、週刊誌やDVDでは知ってたけど、実際のショーなんてはじめてで」
「はまりそう?」
僕は正直に考える。僕はショーを楽しめただろうか? 痛みを与えたり、苦痛を受けたり、こういうふうになってみたいって思っただろうか?と。
そうして熟考したのちに、僕はNoという答えを出した。
「みんながSMを好きになるわけがないわ。それってぜんぜんふつーよ」
「雪乃は? 雪乃にはそういうシュミがあったんでしょうか?」
僕は、これを一番クルミに聞きたかったのだと思った。
いたって普通のセックスにしか興味がないと思っていた雪乃。その雪乃が、SMのためにこんなに遠くまでやってきて、そしてクルミと会っていた理由を僕は知りたかったのだ。
今度はクルミが考えた。
そうしてしばらく考えたすえに彼女は、わからない、と答えた。
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「クルミ〜。おつかれさま〜」
カヲルの声に振り返ると、細面の地味な顔立ちをした女性が革ジャンにジーンズで立っていた。
化粧を落としたせいか、その顔は青白くも見える。けれど、僕はそれでもステージで見たクルミよりかはるかに親近感を感じていた。
「まずは乾杯だよね。再会を祝して、そして、私たちを引き会わせてくれた天国の雪乃にも!」
物静かに喋るカヲルが饒舌になっていたのは、たぶん酒のせいなのだろう。
「乾杯」
クルミは小さな声でそう答えて、僕たちをグラスを鳴らした。
カヲルは僕がクルミを探してくれたのだと言った。ちょっとうわずった声で、それでまた会えたからよかったと言って、それから言葉がだんだんあやふやになっていって...... そしてそのまま「ひどいよね〜。クルミってば、いつのまにかいなくなっちゃって、びっくりしたよ〜」と言いながら、カウンターにうつぶせてしまった。
「バカだよね、カヲルってばお酒に弱いんだよ」クルミが言った。「それに天国の雪乃に乾杯、なんて、不謹慎もいいとこ。ごめんね。いつもはもうちょっと分別のある子なんだけど」
「いいんです。もう雪乃がなくなって三ヶ月もたってるし。そろそろ僕もそう思わなきゃいけない頃だ」
「おくやみにも行けなくて......ていうか、まだ信じられなくて」
「信じられないのは僕も同じですよ。 でも、それでもそれを受け入れなきゃいけない。ほんと、もうそういう時期なんです」
そう言って、モスコーミュールを飲み込む。ちくちくした炭酸の感触が喉を刺激した。
「タロウさんの事、雪乃から聞いたことあった。一回会いにきてくれたとき。ダンナさんは留守番とかさせて大丈夫なの?って言ったら、優しくて、けっこう自由にさせてくれるからありがたいって言ってた」
「ははは、ふつうの男ですよ。僕だって正直、妻がひとりで遊び回るのを快くは思っていなかった。でも、それでも好き勝手に自分のやりたいことをやるのが雪乃なんだ。そっか......優しいって思ってくれてたんだな。だったら、一度でも。面と向かってそう言ってくれればよかったのにな」
鼻の奥のあたりがツンとしてきて、僕は自分が泣きそうになっていることに気付く。
慌てて話題を変えることにした。
「SMって。はじめて見ました。いや、もちろん、週刊誌やDVDでは知ってたけど、実際のショーなんてはじめてで」
「はまりそう?」
僕は正直に考える。僕はショーを楽しめただろうか? 痛みを与えたり、苦痛を受けたり、こういうふうになってみたいって思っただろうか?と。
そうして熟考したのちに、僕はNoという答えを出した。
「みんながSMを好きになるわけがないわ。それってぜんぜんふつーよ」
「雪乃は? 雪乃にはそういうシュミがあったんでしょうか?」
僕は、これを一番クルミに聞きたかったのだと思った。
いたって普通のセックスにしか興味がないと思っていた雪乃。その雪乃が、SMのためにこんなに遠くまでやってきて、そしてクルミと会っていた理由を僕は知りたかったのだ。
今度はクルミが考えた。
そうしてしばらく考えたすえに彼女は、わからない、と答えた。
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2009年05月07日
「タピオカ」 14
「タピオカ」14 クルミ
ステージは一日に二回。
だけどもその日の二回目のステージのことをあたしはほとんど記憶していない。
一度目のステージが終わったあとにカヲルの見えるテーブルに行き、短く再会を喜び合い、連れの男を紹介してもらい、それから、事の顛末を知ってしまったからだ。
雪乃が死んだ?
たしかに雪乃との連絡は途絶えていた。
いや、ふらりとこの町に来たばかりに、わたしはほとんどの友人との連絡が途絶えきっている。
それをさみしいと思うことはなかった。
携帯の電話帳にはいつだってアドレスも番号もあったし、時が来て、会いたい人ができればいつだって連絡できるって思っていたからだ。
とりあえず今すぐに居場所なんて知らせなくても、どこにだって友達はいるんだから。
ずっと、そう思っていたのだ。
二回目のステージでは、言葉で男を罵倒しながら、その背中に鞭をふるった。
皮の鞭の力加減をすることが出来ず、思いのほか男が顔をゆがめたので、またもそれを罵倒しながら、涙が流れそうになった。
悲しみはいつも、強い怒りと深いところで繋がっているように思える。
閉店後の待ち合わせに、お店のはす向かいにあるバーを指定した。
だんだんあたしは力がなくなって脱力してゆく。ジーンズに皮のジャンバーを羽織って外に出る頃には、地面にカラダが吸い込まれそうになってしまった。
雪乃。
あたしの携帯には今も雪乃のアドレスがあるのに。
ほんとにあんたはここにいないの?
浴衣姿のカヲルと雪乃の夫は、カウンターのスツールの上で背中を丸めて何かを飲んでいた。
どちらも薄暗い証明の中では茶色く見える液体。
だが微妙な濃淡からいくと、違う種類のカクテルなのだろう。
カヲルが手を挙げて、それから太郎を改めて紹介し、太郎の隣の空いているスツールにわたしを座らせた。
背の高い、少しばかりそげ落ちた頬が精悍な男だ。
「ウォッカを」
これから聞く話を、あたしはウォッカで乗り越えようとしている。
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ステージは一日に二回。
だけどもその日の二回目のステージのことをあたしはほとんど記憶していない。
一度目のステージが終わったあとにカヲルの見えるテーブルに行き、短く再会を喜び合い、連れの男を紹介してもらい、それから、事の顛末を知ってしまったからだ。
雪乃が死んだ?
たしかに雪乃との連絡は途絶えていた。
いや、ふらりとこの町に来たばかりに、わたしはほとんどの友人との連絡が途絶えきっている。
それをさみしいと思うことはなかった。
携帯の電話帳にはいつだってアドレスも番号もあったし、時が来て、会いたい人ができればいつだって連絡できるって思っていたからだ。
とりあえず今すぐに居場所なんて知らせなくても、どこにだって友達はいるんだから。
ずっと、そう思っていたのだ。
二回目のステージでは、言葉で男を罵倒しながら、その背中に鞭をふるった。
皮の鞭の力加減をすることが出来ず、思いのほか男が顔をゆがめたので、またもそれを罵倒しながら、涙が流れそうになった。
悲しみはいつも、強い怒りと深いところで繋がっているように思える。
閉店後の待ち合わせに、お店のはす向かいにあるバーを指定した。
だんだんあたしは力がなくなって脱力してゆく。ジーンズに皮のジャンバーを羽織って外に出る頃には、地面にカラダが吸い込まれそうになってしまった。
雪乃。
あたしの携帯には今も雪乃のアドレスがあるのに。
ほんとにあんたはここにいないの?
浴衣姿のカヲルと雪乃の夫は、カウンターのスツールの上で背中を丸めて何かを飲んでいた。
どちらも薄暗い証明の中では茶色く見える液体。
だが微妙な濃淡からいくと、違う種類のカクテルなのだろう。
カヲルが手を挙げて、それから太郎を改めて紹介し、太郎の隣の空いているスツールにわたしを座らせた。
背の高い、少しばかりそげ落ちた頬が精悍な男だ。
「ウォッカを」
これから聞く話を、あたしはウォッカで乗り越えようとしている。
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2009年04月29日
「タピオカ」 13
「タピオカ」13 クルミ
ステージからのあたしの視線に気づいたらしく、カヲルは口角を上げて小さく微笑んだ。
連れの男の方はただじっとあたしを見ている。嫌悪するでもなく、値踏みするでもなく、ただ、あたしを、静物のように見ていた。
その視線があたしを残虐にしてゆく。
あたしは、メグミを荒縄で縛りながらその胸をわしづかんでぎゅっとねじる。
予想していなかった行動に、メグミの顔が赤らんだ。困惑を帯びた赤い熱。
加虐も被虐も、ステージも日常も、予定調和なんて何ひとつない。何かが何かに感染して、世界は少しずつカタチを変えてゆく、そういうふうにできている。
いつもより高く、縛った足を高く上げると、薄くまとわれた場所があらわになった。
その場所をあたしは赤いピンヒールのつま先で突き上げていった。
ぐいぐいと。
予定外の痛みにメグミの顔が美しく歪んでゆくのが見える。
カヲルの顔が泣きそうになっていった。
そうだ。カヲルは、そういうのって苦手、SMって痛そうだから、私にはとても無理.....って言ってたんだ。
連れの男の顔は少し顔を赤らめながらこちらを見ている。
この男は今まで自分の指向性と、このように向きあったことがないのだろう。受け入れるべきか受け入れられないままなのか、その境界線のあたりに立っている。
それはもちろんあたしが決めることではない。
感じるっていうのは、あくまでひとりひとりの胸の中の小さな噴火のようなものだからだ。
男の濃いグレーの無地のシャツのあたりを、カヲルがぎゅっと握りしめた。
男はどうしていいか分からず、目の前のビールひとくちで口を湿らせた。
ほら。
赤いエナメルのジンクスだ。
わたしは、熱を帯びてきた男の顔をじっと見据えた。
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ステージからのあたしの視線に気づいたらしく、カヲルは口角を上げて小さく微笑んだ。
連れの男の方はただじっとあたしを見ている。嫌悪するでもなく、値踏みするでもなく、ただ、あたしを、静物のように見ていた。
その視線があたしを残虐にしてゆく。
あたしは、メグミを荒縄で縛りながらその胸をわしづかんでぎゅっとねじる。
予想していなかった行動に、メグミの顔が赤らんだ。困惑を帯びた赤い熱。
加虐も被虐も、ステージも日常も、予定調和なんて何ひとつない。何かが何かに感染して、世界は少しずつカタチを変えてゆく、そういうふうにできている。
いつもより高く、縛った足を高く上げると、薄くまとわれた場所があらわになった。
その場所をあたしは赤いピンヒールのつま先で突き上げていった。
ぐいぐいと。
予定外の痛みにメグミの顔が美しく歪んでゆくのが見える。
カヲルの顔が泣きそうになっていった。
そうだ。カヲルは、そういうのって苦手、SMって痛そうだから、私にはとても無理.....って言ってたんだ。
連れの男の顔は少し顔を赤らめながらこちらを見ている。
この男は今まで自分の指向性と、このように向きあったことがないのだろう。受け入れるべきか受け入れられないままなのか、その境界線のあたりに立っている。
それはもちろんあたしが決めることではない。
感じるっていうのは、あくまでひとりひとりの胸の中の小さな噴火のようなものだからだ。
男の濃いグレーの無地のシャツのあたりを、カヲルがぎゅっと握りしめた。
男はどうしていいか分からず、目の前のビールひとくちで口を湿らせた。
ほら。
赤いエナメルのジンクスだ。
わたしは、熱を帯びてきた男の顔をじっと見据えた。
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2009年04月13日
「タピオカ」 12
「タピオカ」12 クルミ
「今日は赤いエナメルのボンデージにしよう」
クルミは鏡に向かって赤茶けた髪の毛をスプレーで逆立てながらそう思った。
今日、あたしは誰か運命の人に出会う。あたしのひそかなジンクスだ。あたしはそういう日は決まって、この赤いボンテージを着ている。
その昔パートナーだった歯科医師から最初に買ってもらったコスチュームだった。
パートナーに施されてお店で試着したが、カラダにぴったりすぎて動きもままならない。ことに腰回りはあまりにもぴちぴちで、ハイレッグのラインがめくりあがり、後ろから見るとお尻の下半分がきれいに見える状態になってしまう。
「恥ずかしいです。お尻がまるみえです」
「いや。それくらいでいい。クルミの尻はいやらしくていい。それが見えなければ何の意味もないんだ」
パートナーはその日、赤い首輪とそれに繋げる鎖も買ってくれた。
慌ただしい引っ越しのすえに、その首輪と鎖はどこにあるか分からなくなった。 だが、ちょっと古びたエナメルのボンデージは今も健在だ。
はじめて雪乃と会った日も、あたしはこの赤いボンデージを着ていた。
あの日雪乃はパートナーと二人であたしの写真を撮ってくれた。
下からヒップラインを強調して撮るアイディアは雪乃が出したものだったけれど、パートナーはそのアングルのよさに歓喜した。
あとは人形のようにだらりを両足を広げて座るポーズ。
「放心したように、顎を上にあげて、唇を半開きにするの」
雪乃がそう、イメージを伝えた。
それから高級ホテルのベッドのシーツを波のように打たせて、その上に仰向けになったり。四つんばいになって尻を高く上げて、それを下から撮ったり。
雪乃の頭にあるイメージはパートナーをすごく喜ばせた。
インターネットのサイトで知り合い、メールのやりとりのすえ、撮影をしたいと雪乃が言ったこと。パートナーがそれを喜び、3人でホテルで撮影に熱中したこと。 絡みの写真は撮らないという約束だったけれど、パートナーの要望でわたしたちは雪乃の前でいつになく激しいセックスに興じてしまったこと。
あの頃のあたしたちは、なにひとつ閉じてなかった。
いろんな指向性の人々が、あたしを見て感じることに今よりも何倍も喜びを感じていた。
そのあと、やはりネットで、同じ街に住むカヲルと出会い、カヲルの恥じらった浴衣姿を雪乃ならどう撮るのだろうか、いつか二人にも会ってほしい......などと妄想したり。
だけども、いつしか状況が変わり、今あたしはこうして知らない街でSMバーのショータイムをやっている。
誰かを恨んだり後悔したりはしない。こうしてなにもかも、水のように流れていくものなのだと思っている。
それでもあたしは気付いた、この世界にいるあたしの方がずっとあたしだってことに。
そのために何かを犠牲にしたつもりなんてない。
ただ、ときどき、ここにいることの心地よさに夢中だった牧歌的な時代を、ふっと懐かしく思い出してしまうだけだ。
ボンデージの衣装はあれから何着も増えていった。
皮素材のものの方が柔らかくカラダに馴染むことも知ったし、黒いものの方が肌の色を際だたせることも知った。編み上げのコルセットはヒップラインを際だたせるのに最適だった。
それでも、これは、あたしの小さなジンクスだ。
今日は「なにか」があたしを待っている。
そういう日にあたしは赤いエナメルを身につける。
一回目のショータイムを知らせるMCが聞こえる。
新人のメグミを荒縄で縛りあげ、彼女の片足を持ち上げて滑車につるし上げてゆく。
そのプレイ自体はじめてのものではなく、あたしはそれを難なくこなすだろう。
それでもあたしは昂ぶってゆく。カラダが熱を帯びたように火照ってゆく。メグミの顔をステージに見つけ、切り刻まれたように心が尖ってむき出しになってゆく。
スポットライトに目が慣れてくると客席が見えてきた。
浴衣を着たカヲルが隣の見知らぬ男性の腕をつかみ、あたしを見つけて何か言っているのが、遠くにはっきりと見えてきた。
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「今日は赤いエナメルのボンデージにしよう」
クルミは鏡に向かって赤茶けた髪の毛をスプレーで逆立てながらそう思った。
今日、あたしは誰か運命の人に出会う。あたしのひそかなジンクスだ。あたしはそういう日は決まって、この赤いボンテージを着ている。
その昔パートナーだった歯科医師から最初に買ってもらったコスチュームだった。
パートナーに施されてお店で試着したが、カラダにぴったりすぎて動きもままならない。ことに腰回りはあまりにもぴちぴちで、ハイレッグのラインがめくりあがり、後ろから見るとお尻の下半分がきれいに見える状態になってしまう。
「恥ずかしいです。お尻がまるみえです」
「いや。それくらいでいい。クルミの尻はいやらしくていい。それが見えなければ何の意味もないんだ」
パートナーはその日、赤い首輪とそれに繋げる鎖も買ってくれた。
慌ただしい引っ越しのすえに、その首輪と鎖はどこにあるか分からなくなった。 だが、ちょっと古びたエナメルのボンデージは今も健在だ。
はじめて雪乃と会った日も、あたしはこの赤いボンデージを着ていた。
あの日雪乃はパートナーと二人であたしの写真を撮ってくれた。
下からヒップラインを強調して撮るアイディアは雪乃が出したものだったけれど、パートナーはそのアングルのよさに歓喜した。
あとは人形のようにだらりを両足を広げて座るポーズ。
「放心したように、顎を上にあげて、唇を半開きにするの」
雪乃がそう、イメージを伝えた。
それから高級ホテルのベッドのシーツを波のように打たせて、その上に仰向けになったり。四つんばいになって尻を高く上げて、それを下から撮ったり。
雪乃の頭にあるイメージはパートナーをすごく喜ばせた。
インターネットのサイトで知り合い、メールのやりとりのすえ、撮影をしたいと雪乃が言ったこと。パートナーがそれを喜び、3人でホテルで撮影に熱中したこと。 絡みの写真は撮らないという約束だったけれど、パートナーの要望でわたしたちは雪乃の前でいつになく激しいセックスに興じてしまったこと。
あの頃のあたしたちは、なにひとつ閉じてなかった。
いろんな指向性の人々が、あたしを見て感じることに今よりも何倍も喜びを感じていた。
そのあと、やはりネットで、同じ街に住むカヲルと出会い、カヲルの恥じらった浴衣姿を雪乃ならどう撮るのだろうか、いつか二人にも会ってほしい......などと妄想したり。
だけども、いつしか状況が変わり、今あたしはこうして知らない街でSMバーのショータイムをやっている。
誰かを恨んだり後悔したりはしない。こうしてなにもかも、水のように流れていくものなのだと思っている。
それでもあたしは気付いた、この世界にいるあたしの方がずっとあたしだってことに。
そのために何かを犠牲にしたつもりなんてない。
ただ、ときどき、ここにいることの心地よさに夢中だった牧歌的な時代を、ふっと懐かしく思い出してしまうだけだ。
ボンデージの衣装はあれから何着も増えていった。
皮素材のものの方が柔らかくカラダに馴染むことも知ったし、黒いものの方が肌の色を際だたせることも知った。編み上げのコルセットはヒップラインを際だたせるのに最適だった。
それでも、これは、あたしの小さなジンクスだ。
今日は「なにか」があたしを待っている。
そういう日にあたしは赤いエナメルを身につける。
一回目のショータイムを知らせるMCが聞こえる。
新人のメグミを荒縄で縛りあげ、彼女の片足を持ち上げて滑車につるし上げてゆく。
そのプレイ自体はじめてのものではなく、あたしはそれを難なくこなすだろう。
それでもあたしは昂ぶってゆく。カラダが熱を帯びたように火照ってゆく。メグミの顔をステージに見つけ、切り刻まれたように心が尖ってむき出しになってゆく。
スポットライトに目が慣れてくると客席が見えてきた。
浴衣を着たカヲルが隣の見知らぬ男性の腕をつかみ、あたしを見つけて何か言っているのが、遠くにはっきりと見えてきた。
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2009年03月19日
「タピオカ」 11
「タピオカ」11 タロウ
まったく知らない街の駅の改札口でカヲルと待ち合わせをした。
カヲルの住む街から新幹線で半時間ほどの場所にある大都市。
クルミが住んでいるかもしれない街だ。
「中央出口を出たところで」と、土地勘のあるカヲルが言ってくれたけど、こんなに混雑した場所でカヲルのことがわかるだろうかと心配だった。 けれどそれは杞憂にすぎなかった。
彼は薄いブルーの生地に、赤い大柄の花模様の浴衣を着ていて、それはとても人目をひいていたからだ。
「こんにちは。遠いところ、ようこそ。へんな格好で、びっくりしました?」
僕は困る。
びっくりを通り越している。
遠目には髪をひとつに結んだカヲルは華奢で背の高い女性のように見えるけれど、びっくりするほど派手な浴衣だ。
ワイドショーでおすもうさんが私服の浴衣で歩いてるのを見たときに、ずいぶん派手だなあと思ったことがあるけれど、それに負けないくらいに色も模様も派手だった。
化粧はしていないが、眉を整え、大きな目がくりんとしている。
そして、改めて見てみるときれいだ。
それを口にしてみると、カヲルは美しく口角をあげてほほえんでくれた。
「クルミと会えるなら、この格好の方がすぐに気付いてくれるような気がして。浴衣がよく似合うってわたしに最初に言ってくれたのはクルミだから」
それから、それにしてもよくクルミを見つけられましたね、とカヲルは付け加えた。
ほんとによく見つけられたなあと僕も思う。
もちろん、すごく長い時間を要したのだけど。
クルミはSM関係の仕事をしている、クルミという名で。
たったこれだけのキーワードで、僕は数ヶ月のあいだ、いくつものサイトを行き来した。
デリヘル、ショーパブ、SMクラブ。
そんなサイトをキーワード検索していったけれど、その違いすらわからない。
ことにSMクラブという名前は、カヲルの住む街の地名で何度も入力してみた。だけども空振りだった。
そうしてなんとなく思ったのが、たぶん顧客を相手にするんじゃなくて、自分でショーをやるようなところにいるんじゃないかと言うことだった。
そういうショーをやる店がSMバーという名前で呼ばれることを、「体験記ブログ」のようなものを読んではじめて知った。
ところが、このタイプのサイトには広告が多い。うっかりクリックすると関係のない出会い系のサイトに繋がってしまうこともしばしばで、何度も迷路に迷い込んだ。
僕にはたっぷり時間があった。
雪乃を思い出しながらインターネットを泳いでいく、意味があるのかないのかわからないような時間だけが、大海原のようにあった。
たぶん、何もしていなかったら、この時間の海に押しつぶされていたに違いない。
そう思いながら僕は、出会い系のサイトで顔を出している女性の名前までこと細かにチェックしていった。
無意味なことだと思うこともあった。けれど、止められなかった。
これを止めたら、本当に押しつぶされるような気がしたのだ。
カヲルの住む街にはSMバーと呼ばれるものは一軒しか存在しなかった。
それなりの大都市だと思っていたけれど、需要がそれほどないのだろう。
それで思いついて、もっと大きな都市を検索してみることにした。カヲルとクルミの住んでいる街から列車で二時間、新幹線で半時間というその都市に焦点を絞ったのは、勘でもひらめきでも何でもなかった。
ただ、どこでもいいから検索してみたいという気持からだった。
そうしてある夜更けに、SMバーのサイトにある顔写真から「クルミ」という名前を見つけた。
一重まぶたのきつい目つきを派手にくまどった女性だった。
だが僕にはクルミの顔がわからない。
カヲルに、そのサイトのURLを送って、それでやっと確認できた。
カヲルはすごく喜んで、二人で会いに行こうと言ってくれた。
都合のつく週末の夕方を指定し、そうして僕たちはこの街に降り立った。
「地図をプリントして、場所は確認してきました。タロウさんは今日はこちらにお泊まりですか?」
そう尋ねられてはじめて、その日のウチに帰れない距離であることに気付いた。
「わたしは駅の近くのビジネスホテルを予約してるんですが、チェックインしたら、なかなかいい雰囲気でした。よかったら同じホテルに予約を入れましょうか?」
そう言ってカヲルが手早く携帯から予約を入れてくれた。
こまやかな心遣いができるカヲルに感心する。
雪乃、きみの友達はほんとうに素敵なヤツなんだな、と僕はココロの中でつぶやいた。
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まったく知らない街の駅の改札口でカヲルと待ち合わせをした。
カヲルの住む街から新幹線で半時間ほどの場所にある大都市。
クルミが住んでいるかもしれない街だ。
「中央出口を出たところで」と、土地勘のあるカヲルが言ってくれたけど、こんなに混雑した場所でカヲルのことがわかるだろうかと心配だった。 けれどそれは杞憂にすぎなかった。
彼は薄いブルーの生地に、赤い大柄の花模様の浴衣を着ていて、それはとても人目をひいていたからだ。
「こんにちは。遠いところ、ようこそ。へんな格好で、びっくりしました?」
僕は困る。
びっくりを通り越している。
遠目には髪をひとつに結んだカヲルは華奢で背の高い女性のように見えるけれど、びっくりするほど派手な浴衣だ。
ワイドショーでおすもうさんが私服の浴衣で歩いてるのを見たときに、ずいぶん派手だなあと思ったことがあるけれど、それに負けないくらいに色も模様も派手だった。
化粧はしていないが、眉を整え、大きな目がくりんとしている。
そして、改めて見てみるときれいだ。
それを口にしてみると、カヲルは美しく口角をあげてほほえんでくれた。
「クルミと会えるなら、この格好の方がすぐに気付いてくれるような気がして。浴衣がよく似合うってわたしに最初に言ってくれたのはクルミだから」
それから、それにしてもよくクルミを見つけられましたね、とカヲルは付け加えた。
ほんとによく見つけられたなあと僕も思う。
もちろん、すごく長い時間を要したのだけど。
クルミはSM関係の仕事をしている、クルミという名で。
たったこれだけのキーワードで、僕は数ヶ月のあいだ、いくつものサイトを行き来した。
デリヘル、ショーパブ、SMクラブ。
そんなサイトをキーワード検索していったけれど、その違いすらわからない。
ことにSMクラブという名前は、カヲルの住む街の地名で何度も入力してみた。だけども空振りだった。
そうしてなんとなく思ったのが、たぶん顧客を相手にするんじゃなくて、自分でショーをやるようなところにいるんじゃないかと言うことだった。
そういうショーをやる店がSMバーという名前で呼ばれることを、「体験記ブログ」のようなものを読んではじめて知った。
ところが、このタイプのサイトには広告が多い。うっかりクリックすると関係のない出会い系のサイトに繋がってしまうこともしばしばで、何度も迷路に迷い込んだ。
僕にはたっぷり時間があった。
雪乃を思い出しながらインターネットを泳いでいく、意味があるのかないのかわからないような時間だけが、大海原のようにあった。
たぶん、何もしていなかったら、この時間の海に押しつぶされていたに違いない。
そう思いながら僕は、出会い系のサイトで顔を出している女性の名前までこと細かにチェックしていった。
無意味なことだと思うこともあった。けれど、止められなかった。
これを止めたら、本当に押しつぶされるような気がしたのだ。
カヲルの住む街にはSMバーと呼ばれるものは一軒しか存在しなかった。
それなりの大都市だと思っていたけれど、需要がそれほどないのだろう。
それで思いついて、もっと大きな都市を検索してみることにした。カヲルとクルミの住んでいる街から列車で二時間、新幹線で半時間というその都市に焦点を絞ったのは、勘でもひらめきでも何でもなかった。
ただ、どこでもいいから検索してみたいという気持からだった。
そうしてある夜更けに、SMバーのサイトにある顔写真から「クルミ」という名前を見つけた。
一重まぶたのきつい目つきを派手にくまどった女性だった。
だが僕にはクルミの顔がわからない。
カヲルに、そのサイトのURLを送って、それでやっと確認できた。
カヲルはすごく喜んで、二人で会いに行こうと言ってくれた。
都合のつく週末の夕方を指定し、そうして僕たちはこの街に降り立った。
「地図をプリントして、場所は確認してきました。タロウさんは今日はこちらにお泊まりですか?」
そう尋ねられてはじめて、その日のウチに帰れない距離であることに気付いた。
「わたしは駅の近くのビジネスホテルを予約してるんですが、チェックインしたら、なかなかいい雰囲気でした。よかったら同じホテルに予約を入れましょうか?」
そう言ってカヲルが手早く携帯から予約を入れてくれた。
こまやかな心遣いができるカヲルに感心する。
雪乃、きみの友達はほんとうに素敵なヤツなんだな、と僕はココロの中でつぶやいた。
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2009年02月24日
「Four dishes story」をまとめ読みに追加
お知らせ
「Four dishes story」を左バーの「まとめ読み」のコーナーに追加しました。
短編ですが、とても気に入っている作品です。
また、自分自身の転機になった記念すべき作品でもあります。
Four dishes story
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