2006年02月07日

練習曲

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 列車に乗って何か食べてコーヒー飲んで車窓を眺めてキオスクで買った雑誌読んで、それから少しまどろんで、持ってきた文庫本読んでまた車窓を眺めて。それを長い時間繰り返していくと、だんだん気持ちの高低がなくなっていった。それは平坦というよりも、マーブルのように絵の具が交じった状態に近いと思う。そうして、そのときにいつも、わたしはなにかに出会うのだ。

 その「なにか」に出会うために、わたしは長時間の移動を好んでいるのだと思っている。
 それは邂逅でもなんでもない、いつもは思いもしないような、些細でいて、ただちょっと風変わりなことだ。

 わたしは今、いつか死に旅立つための練習をしているのではないだろうか?

 わたしはそんなことを考えていた。
 短い旅に出ているあいだ、夫も子供たちもわたしがいない日常をこなしていた。
 そもそもわたしは「いないと困る」人間ではない。
 もちろんいないと困るのが日常なのだけど、それが永遠には続かない。
 わたしは永遠にいないと困る人間ではいられないのだ。
 
 一方でわたしはいつか、地図も持たずに知らないところにひとりで行かなければならない。
 そのときに、走る列車あるいは長い川をくだってゆく小舟に身を任せなければならない。
 慌てても泣き叫んでも、そうして身を任せることしかできないのだ。
 旅は、その日のための練習曲を奏でる作業なのような気がしていた。

 それが悲しい作業だとは思わなかった。
 だんだんそういうふうにして、必然である死を少しずつ自分の中に取り込んでゆくことが必要になってきたのだろう。

 おみやげを抱えて家に帰ると、子供たちは無邪気にその包みを開けて、柿の葉でくるんだお寿司の個数を数えながら、小さな口に放り込んでいった。
 夫が作ったおにぎりの具のなかでいちばんおいしかったシーチキンマヨネーズの味を延々を喋り続けていた。
 
 ほら、彼らは、こんなふうに、わたしのいない日常を生きていけるではないか。
 自分を過信しない方がいい。
 いつか取り戻せない喪失のあとでも、彼らがこんなふうに生きていけるようにと、ちいさく願った。
 
 もちろん、わたしはいつまでもこのままでいたいけれど。
 家族の誰ひとりも欠けることを望んでいないけれど。
 それでも、昨日誰にも言わずに、ひとりで練習曲を奏でてみた。

 今日からもうしばらくは、その練習曲は奏でない。


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posted by noyuki at 15:23| 福岡 ☁| Comment(4) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする