
遠い昔に唇を合わせた人のことをずっと覚えていた。至近距離が接点へと変わった瞬間のこととか、接点がより深い交接を望んだこととか、そのことを口にしないではいられないほどに気持ちがはやっていたこととか、ずっと覚えていたけれど、反芻するごとにその輝きは色あせていった。
この瞬間を記憶していれば、この先どんなことがあっても生きられると思っていることを、人はけっして同質のままに保つことはできない。
保つことができるとすれば、それはファンタジーだ。
そんなファンタジーが「超能力」という姿にまとって、この物語がはじまる。
タイムスリップを扱った「Y」、失踪を扱った「ジャンプ」に続き、超能力をテーマにして描かれたのが「5」。
ただし読者はしょっぱなから超能力とは何ぞや、という迷路に迷い込むことになる。
ふとした事件から中志郎に授けられた能力は「(奥さんと)出会った頃の情熱を取り戻せる能力」。
エモーショナルな超能力だ。だが、その能力(あるいは情熱)が、ほのかな赤い光のようにずっと物語の中に小さく灯り続け、ときには光が弱まり、そしてときには柔らかくも強烈は光を放っている。
この赤い光を、自分の中のなにかと照らし合わせるきっかけがあれば、この作品は生涯忘れられない作品になるだろう。もし何かのの巡り合わせのちがいで、その光と同質のものが読者の内側になかったとしたら、これは、ただ朽ち果ててゆく作家が再生しようとしているだけの作品に見えるかもしれない。
佐藤正午とはそういう作家だと思う。
けっしてすべてを描かない。生きている自分に照らし合わせなければけっして見えないもの、そういうものを描いている。
だから、幸運にも(あるいは何かの巡り合わせで)、自分の中のほのかな赤い光が見えたとき、せつなさに胸を潰されるようにその行方を見守ることになる。
そうして、中志郎のファンタジーと対比させるように、語り手である僕(津田伸一)の日常が語られる。
「ほのかな赤い光」はすべての人に同じものを見せてはくれない。
彼の日常を嫌悪する人もいるだろうし、投げやりに見える人もいるかもしれない。
行き過ぎたジョークで自分を隠し、誰かに執着することに喜びを見いだせず、業界からは捨てられ、出会い系の女たちを渡り歩く津田伸一。彼の「ほのかな赤い光」はあまりにも巧妙に隠されていて、ときには苛立ちながら彼の言動を見守ることになってしまうのだが、それでも、物語のあいだ中読者は「ほのかな赤い光」を求め、作者は巧妙にそれをあいまいなものにしながら、そうして最後は中志郎とは違うものにたどり着くことになる。
どちらがほんとうの超能力か、ではない。
求める赤い光が違うのだ。
それでも、まるで大人のファンタジーのような物語を通して、わたしたちは「あの一瞬を永遠に感じ続けること」に憧れる。または未来に「そういう一瞬が来ることに」憧れる。
それに憧れ、ずっと追い続けていたいと思う素晴らしい作品。
そして同時に「自分の中に灯るほのかな赤い光」について、過去現在未来、すべての人生をひっくりかえして考えてみたいと思ってしまう作品。

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