2008年05月23日

プロット

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 人を好きになるとすごくあたたかい気持ちになるのに。
 誰かを手にいれたいと思う気持ちはすごく暴力的だ。

 いっかい人格を壊してみる。
 きっとそこから始まれる。

 人を好きになるとすごくあたたかい気持ちになるのに。
 誰かを手にいれたいと思う気持ちはすごく暴力的だ。

 それはすごく矛盾している。

 この矛盾を言葉にしたくて、何度も何度も書いては消すのに。
 それでもそれを言葉にできない。

 君と話しているといつも、その世界だけがすべてだと思うのに。
 手に入れたいと思うとき、その世界すらも壊してしまいそうになるのだ。
 まるで意志とは関係なく、降りしきる、暴風雨みたいだ。

 きっといくつもある人格だもの。
 ここにある世界だって、わたしのココロの中の小さな部屋にすぎないのだし。
 わたしはここから出て、またふつうの日常にだって戻れるのだから。
 君の前にいるわたしのひとつくらい、人格が壊れてたってどうってことないって。

 わたしは、とっさに自分に、そう言い聞かせるのだ。


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posted by noyuki at 21:30| 福岡 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 詩とか短文とか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月08日

芯のないリンゴ

佐藤正午の小説「ジャンプ」で、恋人が失踪したとき、主人公は自分の気持ちのあやふやさを「まるで芯のないリンゴのようだった」と表現した。
この比喩のリアリティが好きでいつまでも覚えていたけれど、昨日「自分だって芯のないリンゴみたいだったんじゃないか」とふと思った。

けっして恋人が失踪したわけではない。
ただ単に忙しさに忙殺されていたのだ。
自分がやるべき大仕事がいくつか重なり、次から次に片付けることばかりに半年ほど追われていた。

本を読むこともほとんどなくなり、寝る前に頁をめくることなくベッドに倒れ込んだ。
夜にゆっくりとパソコンに向かって自分の言葉を紡ぐということすらできなくなってしまっていた。
はたから見たら「活動的に仕事をこなしている」ようにしか見えなくても、まるで芯のないリンゴになってしまったような感覚がずっと離れなかった。

もともとそういうふうにはできていなかったのだ。
自分にとってはスキマと空白だらけの時間と、そこに漂う夢想やら空想の方が必需品であって、それ以外のことを完璧にこなせても、それはそれでしかなかったのだ。

コンクリートの壁のようにソリッドな世界が終わるとまた、少しずつ、そのすきまから吹いてくる風が見えるようになってきた。

なんだ。
空白はむなしさでもなんでもないじゃないか。

頭の中の野原には風が吹き渡った。
本を何冊か読んで、そのひとつひとつに涙を流した。
ああ、なんて世界がここにあるんだ。その居心地のよさとクリアさに涙した。
それから言葉を紡ごうと思った。
まだ、ぎいこちない。
うまく書きたいことが見つからない。
そうして、カタチを失ったあいまいさを、まだ言葉にできない。

芯のないリンゴじゃなくて。
わたしは芯のあることを忘れてしまったリンゴだったのかもしれない。

あらためて、自分というリンゴには芯があってよかったと思った。
もちろんそれは自分自身の芯という意味ではなくて、寄りかかるべき「大切なもの」だった。
他者の紡ぐ物語。
自分で紡ぎたいと思う言葉のかけら。

そういうものが、きちんとカタチを変えずにここにあったことにまず感謝した。
まずは、そこからだ。

時間ばかりが立ってしまって、もちろんわたしもまた昔のわたしのままではないのだけれど。
まずはそこから始めよう。
そう思ってキーボードに向かった。

まだここには何もない。
だけども。
まずはそこからだ。



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posted by noyuki at 22:19| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月07日

八日目の蝉 角田光代 中央公論新書

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七日間しか生きられないせみの中で、たった一匹だけ八日だけ生きるせみがいるとしたら・・・

出生後に誘拐されて数奇の運命を生きてきた主人公とともに、この問いかけに、ひとつの答えが出される、そんな小説だ。

浮気相手の子供を誘拐した希和子は、あやしげな宗教団体、ラブホテルの住み込み、小豆島の小さな店を転々をしながらも、子供が四歳になるまでおだやかな生活を続ける。
だが、新聞に載ったスナップ写真が原因でふたりは引き離される。
第二章では成長した子供、恵理菜の口からその後の人生が語られる。家族との関係をはじめとして、彼女の人生はけして順風ではない。そうして、まわりも、もちろん生傷のけして癒えない生活を続けている。

誰も背負っていない過去を背負っているという意味で恵理菜は八日目の蝉だ。
知らなくていい、余計なことを抱えている人生。
そのことはもちろん恵理菜に重くのしかかっている。

八日目の蝉であることはどういうことか?
ふとしたことから知り合った千種の口から語られた言葉にその答えがある。
その答えに号泣してしまった。

人間はどこかしら八日目の蝉の部分を持っていて、それを持てあましたり呪ったり、誰をなぞることもできない自分だけの人生にたたずむことがあるのかもしれない。
それを受け入れる何気ないひとことを待っていたのは恵理菜だけではないはずだ。

この作品にはそういう人間の業を受け入れるものがある。
受け入れられることによって、わたしたちはその先の人生を思うことができる。

そういう本に出会うことで、わたしもまた、ひとつの答えの先を思い描けた。


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posted by noyuki at 22:29| 福岡 | Comment(0) | TrackBack(0) | 見て、読んで、感じたこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする