2008年12月21日

伊坂幸太郎の備忘録 その4

「モダンタイムス」




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 通常版を堪能したあとに、どうしても挿絵入りのものを読みたくなり「完全版」を読んでみる。
 内容はまったく同じはずなのに、段組やフォント、そして挿絵のせいか別の作品を読んでいるような気分になった。不思議だ。
 たぶん、これからも何度も読み返すだろう、まちがいなく傑作だ。

 「モーニング」誌に掲載。マンガと同じように編集者との打ち合わせをしながら描かれたものだという。物語のうねりがマンガと似ている。小さい山場の繰り返しと、小気味のいいセリフ。飽きない。

 プログラムの会社に勤めている主人公渡辺、そして五反田、大石倉之助が、「ゴッシュ」という会社の仕事を請け負い、検索ワードの謎にはまってゆく。
 そして検索の末に見つけ出した、「キーワードを検索すると危険が迫る」という罠。
 そこから、「大きな事件の謎」が解明されてゆく。

 物語は壮大で、渡辺の恐ろしい妻佳代子、政治家の永嶋丈など、魅力的な人物も数多く出てくる。
 監視社会の恐ろしさ、組織の一部として仕事をするチャップリンの「モダンタイムス」的な社会が描かれている。

 だが作者は、組織の一部として「何も考えずに仕事をすること」をよしとしない。
 良心、勇気、罪悪感、そういった小さなプライドをひとりひとりに持たせてくれる。
 大きな一括りの人生ではない「日々の小さな目的」。
 誰かを鼓舞することなく「染みいるような小説のこと」。

 ストリーの中に盛り込まれている、ひとすじの人生の指針が、「大きな物語」を、小さく抵抗しながら、やがて大きな物語の骨格となってゆく。
 
「俺が小説を書いても世界は変わらない」と、作中で伊坂好太郎が言う。
「小説は、一人一人の身体に染みていくだけだ」とも。
 それは作者の実感であり、事実小説のスタンスかもしれないが。
 染みていくものの大きさは、ふりかえってみるとやはり人生を変えているのを、わたしたちは経験で知っている。
 わたしたちはそういうふうにして価値観を育て、オトナになってきたのだ。
 これから、若い読者たちが、身体に染みていくものを感じながら、そういう人生を歩むにちがいない。
 それを想像するのが楽しくなるような作品である。

 
 追記 作品に登場する安藤潤也とその妻、そして緒方は、「魔王」にも登場している。
あわせて読んでみるのがおすすめ。

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2008年12月17日

「タピオカ」10

「タピオカ」10・ 太郎


 yukinoのSNSにメッセージランプを見つけたのは、それから一週間ほどしてからだった。
 僕は、胸の鼓動を感じながら、メッセージを開く。
 カヲルのメッセージにはこう書かれていた。

 *   *   *

 太郎さま。

 先日はとつぜんお邪魔させていただいてほんとうにありがとうございました。わたし自身、雪乃さんにお線香をあげさせていただくことで、少しですが気持ちの上で納得することができたような気がしております。
 
 それから返信が遅くなってほんとうに申し訳ありませんでした。
 実はクルミとは二年ほど前から連絡が取れなくなっていたのです。ケイタイ電話の番号を替えてしまったみたいでメールも届かなくなっていました。
 それで雪乃さんもわたしも心配しながらもそのままだったのですが、クルミの写真を撮っていた彼氏のことを思い出し、今回思い切って彼の方を訪問してみることにしました。
 連絡先は知らなかったのですが、開業の歯科医であることを思い出し、名前を探してみたら比較的簡単に見つけ出すことができました。(おかげで虫歯のチェックと歯垢の掃除ができました)
 雪乃さんとも一度会ったことがあるらしく、彼女のご冥福を祈っていると伝言をいただきました。

 わたしたちは仕事の終了後に近くのお店で待ち合わせて、コーヒーを飲みながらお話しをしました。これからその内容を書きます。
 
 彼はクルミとは二年前に別れていたようです。
 結婚して家庭もある男性で、それとは別にクルミとつきあっていたとのことでした。これはわたしの想像ですが、口ぶりからするとある程度の経済的な援助もしていたのではないかと思われます。
 ところが、彼の奥様にこのことがバレて、家庭の中が大変な修羅場になってしまいました。
 奥様はご主人の携帯メールを利用してクルミを呼び出したりして大変だったようです。携帯番号もアパートも知られてしまい、クルミはその両方を替えるしかなくなったようです。
「クルミは、妻に謝罪して二度と会わないと言ったそうです。でも、僕にはなんの連絡もなかった。そういうところがクルミらしいというかなんと言うか......」 
 彼はそう言いました。彼自身が、いまだにクルミの消息を知りたがっているようです。
「もし、クルミがまだこの町にいるとすれば、どのようなところにいるんでしょうか」と尋ねてみました。
「クルミの実家は複雑で、そこを出てひとり暮らしをしていたんで、実家に帰ったとは思えません。案外ふつうの仕事をしながらアパート暮らしをしているかもしれない。でも、ここは大都市なので仕事はあるだろうけれどその分家賃も高い。僕は、クルミは自分の肌をさらすことに抵抗がなかった分、そういったたぐいの仕事についているような気がします」
「具体的に肌をさらす仕事って、どういうものをクルミは選ぶのでしょうか?」
「わたしたちのシュミの関係で、いくつかのお店に知り合いがいました。そういうところを転々としているかもしれません。ハプニングバーやSMプレイのできる店とかです。でも、クルミの噂は誰からも聞きません。なにしろ、この街の店も新旧の交代が激しいので、クルミと遊びまわっていた頃とは状況が違うと思います。でも、なんとなくですが、クルミは(クルミ)という名前のままでどこかSMに関係するお店にいるような気がします」

 今わたしは、パソコンを検索しながら、クルミのいるかもしれないお店を探しているところです。デリヘルの女の子の写真もチェックしています。
 わかったら太郎さんにお知らせするようにしますね。
 無駄なことを......とは思わないでください。
 そういうふうに思われたら悲しいし。なによりも、それが自分がみなさんのためにできることのような気がするからです。

                       カヲル


  *   *



 雪乃、カヲルっていいヤツなんだな、と僕は心の中でつぶやいた。
 クルミと会ってみたい自分がいたけれど、会ってどうなるんだという気持ちもあった。
 
 無駄なことか、無駄ではないことかわからないけれど。僕もまたカヲルの住む街をネットで検索してクルミを探してみたいと思うようになった。

 人の死も失踪も、ネットの中では似ているね。
 ただ(その場所にいなくなった人)というだけで、その理由もわからないままに、だんだんとみんなに忘れ去られていく。

 それはどうでもいいことかもしれないけれど、さみしいことかもしれない。
 僕はそれを「どうでもいいこと」にしてしまわないカヲルがほんと、いいヤツに思えたよ。


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posted by noyuki at 21:20| 福岡 | Comment(0) | TrackBack(0) | タピオカ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月08日

「タピオカ」9

「タピオカ」9・ 太郎

 
 下着会社のシリーズもの「ランジェリー・ラブ」の番外編は、クルミの登場もあって、けっこう人気の作品に仕上がったようだ。

 クルミはひとりの顧客としてそこに登場する。
 男性社員は下着のクレームの謝罪をしにクルミの家に行くのだが、クレームがだんだん言葉責めに変わり、それから男性社員の身体が凌辱されてゆく。
 ふつうのマンションなのにベッドルームに連れていかれるとそこには手錠やロープがあった。クルミが服を脱ぐと、身体にぴったりしたビスチェ風のボンデージが現れる。そうして、なぜか室内なのにくるみはピンヒールの赤いエナメル靴を履いていて、そのピンヒールの先で長々と男の性器は弄ばれる。
 その描写と言葉責めが延々と描かれている部分には喝采のコメントが多く寄せられていて、そのほとんどが女性だったことに僕は驚いた。

 ビスチェ風のボンデージを着たクルミのモノクロ写真がそこにあった。
 おそらく本人だろう。顎の下のあたりから膝の上あたりまでのショット。顔はわからないものの、シャープな顎とボディライン、そして比較的大きなヒップは芸術的なほどに美しい。
 お尻をつきだしているクルミを下から撮った写真もあった。
 とてもきれいだとコメントが続く。だがそのコメントもすべて女性のものだった。

 女性が読むエロ小説というものがあるなんて思いもしなかった。
 そしてその作者が、今はなき自分の妻だったなんて。
 僕は混乱する。
 今更になって、そのことにまったく気付いていなかった自分自身に、とてつもなく混乱している。

 貞淑な妻ではなかった。
 遊ぶのが好きだし、家事が嫌いだと公言した。事実、休みの日に僕が手伝わなければ掃除だってまともにやったことはなかった。 僕が愚痴を言う夜は、一緒になって賛同する日もあったし、そんなにイヤなら会社なんて辞めれば、と鼻にもかけない日もあった。
 セックスに恥じらいを持つタイプでもなかった。
 休みの前の日など、ねえ、やろうよ、と言いながらふざけて僕の上に馬乗りになってみたりもする。フェラチオが好きで、そう、こういうふうにするのって好きなのと言ってなかなか止めてくれない。 もう中に入れたいと言っても、まだダメ、とじらされたりもした。雪乃は感じやすく、イキそうなときはためらわずにそれを口にした。そのときの声の甘さだけは、今もまだ鮮明に記憶に残っている。

 同年代の夫婦がどういうセックスをしているのかなんて知る由もなかったが、それはカラダの馴染んだカップルとしてはけっして異常な行為ではなかったと僕は思っていた。
 だけど雪乃は、この小説のようなセックスをしたかったのか?
 直感でそれはないと思った。もしそういうことを試してみたいとすれば、彼女はためらいものなく口にするはずだ。少なくとも僕の中の雪乃はそういう女だった。

 では、なぜ?

 クルミに会いたいと思った。
 クルミとはメッセージや写真のやりとりをしているはずだ。 彼女なら、僕の知らない雪乃を知っているかもしれない。
 そう思ってメールのチェックまでしてみたが、最近はメールのやりとりがなかったのかもしれない。クルミのものらしきメールは一通も見つからなかった。
 おまけにアドレス帳にもクルミのアドレスの記載はない。
 他の名前で登録しているのか? それとも登録せずのままなのか? 削除してしまったのか?

 何日か考えたあとで僕は、SNSを使ってカヲルにメッセージを送った。
 彼はクルミに会ったことがあると言った。
 カヲルならクルミの居場所を知っているのかもしれない。
 
 そう思ってメッセージを送ってみたのだが、僕はそれを知っていったい何をしたいのだろうか?
 新幹線で5時間、そんな時間をかけてクルミに会いに行くというのだろうか?

 メッセージを送ったものの、そんな逡巡を繰り返したせいか、カヲルからの返信の届くまでの時間を、僕はとてつもなく長く感じてしまっていた。

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2008年12月06日

「タピオカ」8

「タピオカ」8・ 太郎


 (ここのサイトには性表現が含まれています。それをご理解の上、読んでいただけると幸いです。
 なお、18才未満の方の閲覧はお断りしています)

 雪乃のブログはそういう言葉からはじまる。
 小説の数はそう多くはなかった。せいぜい10作品程度だ。
 巨乳揃いのランジェリー会社のオフィスに入社してきた男性社員がセクハラまがいの誘惑をされる話がシリーズで掲載されていた。

 それが小説にエロにも不慣れな稚拙なものであることは僕にもわかった。ミステリーくらいしか読まない僕でも気付くほど、読みづらくてリズム感のない文章。
 それでもコメントだけはたくさんついていて、今度はこういうプレイをなどというリクエストもそこにはあった。
「いつも1対1の濡れ場ばかりでちょっと単調。これだけの女性がいるのだから、みんなでプレイして欲しいものです」とか。
「この若い男性社員ってどういう顔の感じなんでしょうか? カラダはすね毛もなにも生えてないつるんつるんを想像しています。胸板、ぜったい薄いのがいい! でも貧弱はお断りですよね」とか。
 雪乃はそういうコメントを意識しながら、だんだん詳細に描写をすることを覚えていったのだろう。
 女性用の下着販売の会社で売り上げの悪い男性社員が、月例会議のあとに会議室で女性幹部連中から「教育」を受ける。 ショップに訪れた常連の女性の採寸をいきなり命じられて、いろんな要求に応えていく。そのあたりになると、だんだんと描写が過激になっていった。 

 それを読むと、雪乃とのセックスを思い出して、下半身が熱くなってしまった。
 おかしい。
 雪乃との性行為には、そんなこと何ひとつ含まれてなかったのに。

 このオフィスシリーズが5編ほど続き、その番外編で「クルミ」が初登場した。
 クルミは下着ショップの客として、男性社員を担当に指名し、採寸から、訪問、そしてクレーム処理まで担当させながらも、サディスティックな行為を行っていくのだった。
 いろんな理屈をつけては、ほんとうの女性をわかっていないからおざなりの採寸しかできないのだと言い、最終的には自宅に呼びつけて男を縛り上げ、男が持っていたメジャーで勃起したものを採寸したり、アナルに指を入れおしひろげ、痛がる男に道具を差し込んで言葉責めを繰り返す。
 アナルビーズというものがどういうふうな感覚をもたらすのか、ことこまかに描写されており、雪乃はそんなことまでしていたのかと愕然としたが、たぶんこれはクルミからの知識に違いないと自分に言い聞かせた。

「オフ会に行くの」三年ほど前から雪乃は、半年に一度ほどはそう言って出かけるようになっていった。遠方に行って一泊することもあった。「オフ会は、すごく楽しいのよ。今まで会ったことのない人とたくさん会って話をするのよ。太郎もそういうのって楽しいってわかるでしょ?」

 僕はパソコンでは通販や動画の配信にしか興味がなかったけれど、そういう楽しみもあるのかなと思うしかなかった。
 雪乃は遊びに行く日をすごく楽しみにしていた。だから、休日にひとり残される愚痴を言おうものならば、とたんに不機嫌になって口も聞かなくなってしまったし、洗っているお皿を割れるんじゃないかと思うくらいぞんざいに扱ったり、聞きよがしのため息をついたりしていたからだ。
 だから僕は何も言わなくなった。たった数日ひとりで外出しさえすればそれで機嫌が悪くならないのなら、それくらいいいじゃないか。正規社員でない仕事と家事の繰り返しでは飽きてしまうのだろう。息抜きをしてそれでうまくいくのなら、息抜きくらいしてもいい。
 僕自身の息抜きは、雪乃とまったりと過ごす休日やドライブくらいしかなかったけれど。
 それでも僕は雪乃の息抜きを全面的に認めていた。

 おそらくあの頃に、雪乃は「クルミ」と会ったに違いない。


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posted by noyuki at 11:57| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | タピオカ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月03日

「タピオカ」7

 「タピオカ」7・ 雪乃

 カヲルには、いつかは会ってみたいなあと思ってた。
 だから、こんなことの後でも、カヲルの顔を見れたのはちょっと嬉しかった。思ったとおりの男の子。自分のことを「日常はふつうのサラリーマン」って言ってたけれど、あの加工写真から出てくる気品は絶対的なものだったし。まっすぐで純粋な感じの性格もメールのやりとりのままだった。
 お供えしてくれたお線香も、とても上品なラベンダーの香りだったし。
 ほんとに、カヲルに会えたのはよかったよ。

 ああ、でも太郎になにもかも知られちゃったなあ。
 それは、ちょっと、恥ずかしい......

 わたし、小説好きでときどき書いてるんだよ、って言ったのはいつだったっけ? 結婚してすぐの頃?
太郎は全然そういうものには興味がなくって、ああ、そう、シュミがあるのはいいねって流したっけ。

 太郎が大好きな映画はわたしはあまり見れなくて、外国の映画で黒人の主人公だったりするとみんな同じ顔に思えてなんどもストリー聞き返すものだから、いつしか太郎はわたしを映画のDVDを見ることをやめてしまってた。

 だから、わたしのシュミのことも、自分が知らなくてもいいって気持ちがあったのかもしれない。
 それでわたしはすごく安心してた。
 だって、どんな小説?って聞かれても困るし。奥さんがそんな小説書いてるのを見たって太郎だって困ると思てたから。
 だからわたしは、太郎の興味がないのをいいことに、かなりのびのびとやってたわけだ。

 何もかも整理して、準備してからいなくなるなんて不可能だ。
 昔つきあってた人との2ショット写真だって、着古してよれよれになって捨てそびれてた下着だって、冷蔵庫の奥で死滅していた辛子高菜だってそのままだったけど、やっぱり、それとこれとは違うもの。
 エロ小説は、やっぱはずかしいよ。

 でも、しょうがないか。
 わたしは今ここにはいないんだもの。
 太郎が知りたいのなら、知るしかないんだよね。たぶん。

 
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posted by noyuki at 14:37| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タピオカ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月01日

「タピオカ」6 (改稿)

「タピオカ」6・ 太郎

 メッセージの送り主はカヲルという名前だった。

 僕は女性を想像していたのが、今僕の目の前で雪乃の仏壇に手を合わせているのは若くて華奢な男性だ。
 年の頃は20代後半、あるいは30代になったばかりだろうか。細身のチャコールグレーのスーツは年齢の判断がつきにくいものだったし、柔らかい髪を肩に届かない程度に伸ばしていて、学生なのかどんな職業なのかもわからなかった。
 なによりも顔が小さくて、くりんとした目が妙に愛らしい。小柄だったし、スーツを着てなかったら、女性と間違えてたかもしれない。

「とつぜんメッセージを送ってすみませんでした。あのサイトはログインした時間が分かるんです。それでどなたかがログインしていることがわかって。kanaさんか、もしや家族の方かもしれないと思って思い切ってメッセージしてみました。雪乃さんにはお世話になっていて一度お会いしたかったのだけど、結局はこんなカタチになってしまいました」
 新幹線を使って5時間かけてやってきたのだという。
 ネットでお世話になっていたというのはどういうことなのか?
 それは亡くなった後にわざわざ仏壇に手を合わせに来るようなものなのか?
 恋愛、という言葉も浮かんだけれど、どこかでそれを否定したかったし、何よりもそういう雰囲気ではなかった。
 カヲルには、男を感じさせる匂いというものがまったくなかったのだ。

「あの。お世話って? 雪乃はいったいどういうことをしていたのでしょうか?」
「それは......」
「差し支えなかったら教えてください。僕は雪乃の日記を読んでいるとときどき、雪乃が持っている僕の知らない世界があったんだなって思うんです。それは知らないままでいいことなのかもしれない。でも、僕は。できればカヲルさんや他のみんなが持っている雪乃の思い出も共有してみたい」
「どこまで話していいのかずっと考えていました。でも。太郎さんにお会いして、告白したい気分になってきました。あの。よかったら聞いてくださいますか?」

 そこからカヲルの長い告白が始まった。

「わたしには女性的な部分があります。小さい頃からそうだったのかも知れません。でもはっきりと意識したのは、ネットで写真を出すようになってからでした」

 そう言ってカヲルは目を伏せた。長いまつげが大きな目を覆った。
 女装がシュミなのだとカヲルは言った。

「そうは言っても、女装して街を歩くとかではないのです。自分でゴスロリとか浴衣とか着て、セルフで写真を撮るだけ。加工もかなり凝る方だと思います。自分に見えないくらいにきれいな作品を作るのが楽しいかったのです。わたしはそれを自分のブログに掲載していました。でもわたしは、そうしたくて仕方なかったくせに、人と違うことをやっている自分に後ろめたさを感じてしまっていたのです。雪乃さんはそんなわたしを救ってくれた方でした」

「雪乃のブログを知ってるんだね? 僕はまだ知らないんだ。彼女は、どんなブログをやってたのかな?」
 カヲルはまた目を伏せた。そうしてしばらく考えこむ。
「BL、って、ご存じですか? ボーイズラブっていうんですけど。ああ、でも正確にはエロ系の小説っていうところでしょうか? SMとか自分のような女装の話とか、そういう話が中心で、わたしの写真も何枚か、小説と一緒に掲載していただいたこともあります」

 僕は話のとちゅうで中座させてもらってコーヒーを煎れた。なんだか喉がカラカラになってしまった。

「紹介してくれたのはクルミという、ネットで出会った女性でした。クルミはSMの女王で、やはり雪乃さんの小説に協力していました。クルミとは幸い住んでいる地域も近かったので会って話したりもしたんですが。話しているうちに、雪乃さんの話題が出たのです」

 カヲルは両手で小さなコーヒーカップを包みこむようにしてひとくち飲んで、おいしい、とつぶやいた。僕はその所作を純粋に美しいと感じた。

「その頃のわたしは悩んでいました。同性愛者の方からの誘惑や、男性なのにそんな写真を出すことへの中傷などが続いたのです。わたしの写真に魅力を感じてくれる方がいたのは嬉しかったけれど、中傷する人は、中傷しながらもどこかでわたしを手なずけたい匂いを発していました。最初に否定することで自分の優位を確認したい人。自由なはずのエロティシズムの世界にそういう人がいることも驚きでした。そしてわたしは、誰もが自分のカテゴリーの中にわたしを取り込もうとしているような被害妄想に苦しめられるようになりました。わたしは自分が好きで少しずつやってきたことが、ひとつのカテゴリーの中に閉じこめられていくこととはどうしても思えませんでした。何もないところから、自分の指向性が小さな芽のように出てくる感覚が欲しかったのです。それでいいのよって言ってくれたのが雪乃さんでした」

 エロティシズム、SM、女装? 頭の中で言葉の洪水があふれだして、僕は混乱してしまった。
 
「雪乃さんは、カテゴライズできない感情をどういうふうに自分の中で育てていくのか、とても興味があるのだと言いました。それがとてもかけがえのないことなのだとも。メールのやりとりをしながら雪乃さんは小説を書かれました。ある程度の人には読まれたと思います。ただ、BLの世界には過激なものも多いし、同人誌などで数多くのファンを持つ人もいる。そういう意味では雪乃さんもまた無名の人でした。でも、そういうことは関係なかった。わたしの、誰にも知られないわたし自身が、言葉になって語られることでわたしは救われたのです」

「そのブログのURLを僕に教えてくれるかな?」
 僕はそう言うのがやっとだった。
 だいたいそんな小説をいつ書いてたんだ? 教えてくれても僕は非難したりはしなかったと思うのに。
 そうだ。雪乃は僕が帰って来る頃には、夕飯の支度をすませていつもパソコンに向かっていた。自分の仕事が終わって、僕を待つまでの時間。遅くとも早くとも、雪乃はそれからスープを温め直して夕飯を並べてくれた。あの時間にそんなことをやっていたのか?

「わたしは喋りすぎたかもしれません。雪乃さんは、太郎さんにそれを読まれることを望まれてなかったのかもと、後悔してもいます。だけど、雪乃さんのご主人にできれば、僕も雪乃さんの思い出を共有してほしい。わたしたちは大事な人を失ったから。その思い出を共有してもバチは当たらないんじゃないでしょうか?」
「僕もそう思う。配偶者をなくすことはとてもさみしいものなんだ。絶対的にいない、ということを受け入れるのはすごく時間がかかる。 僕は雪乃の日記を読むことでそれを紛らわせてきた。そこに雪乃の文字があるという感覚だけで、少しだけ救われた気になってしまう。そのブログを読むことができれば、僕は、また少し救われるかもしれない」

 そういうやりとりのあとでカヲルは僕のパソコンにその画面を呼び出し、ブックマークしてくれた。
 それからカヲルは新幹線の時間があるからと、華奢なカラダを折り曲げて、ていねいなお辞儀をして家を辞した。

 
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posted by noyuki at 12:55| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | タピオカ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする