2009年12月29日

本のせかい

本の中にはたばこが好きでお話の上手なおじいさんもいるし
知らない人とセックスばかりしてるおねいさんもいるし
死ぬことばかり考えてるおにいさんもいるし
やさしそうな顔をしてるのにほんとはいじわるなことばかり考えてるおばさんもいます

ほんとはふつうの世界にももっとふくざつな人はいっぱいいるんだけど
そんな人たちはけっして自分のこころの中を語ろうとしない

ものがたりの中の人たちは、こどもにもおとなにも等しく、自分のこころの中をしょうじきにかたってくれるのです。

あなたのまわりに一元的な価値観しかなかったとしても
ものがたりの中には、不滅のたくさんの価値観があります
エロもグロもさつじんも、ものがたりは「やれ!」とはいいません
ただ、そこにあることを、ゆるしています

そこにあることが ものがたりの中でゆるされているからこそ
現実世界は、「見えないそれら」を包括したゆたかなものに向かえるのです


******

福音館書店の「たくさんのふしぎ」の「おじいちゃんのカラクリ江戸物語」が発売中止になったというニュースを受けて書いたものです。

冷静に思うと、読んでもいない本のことを擁護するのは、ひいきもいいとこだとは思いましたが、つらつらと書いた「自分の思い」というものが、なんだか自分にとってとても大切なことのように思えてあえて掲載しました。

すべての人が、本に対してこういう感情を持つわけもなく、悪いものを排除しようという気持ちがある人もいることは認めます。

だけどもわたしはこういうふうに考えているのです。
ただ、それだけ。


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posted by noyuki at 21:35| 福岡 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月23日

ベランダの恋人

 ベランダの恋人との逢瀬はいつもベランダだ。
 携帯電話の着信音が聞こえる、わたしはそれを持ってベランダの戸を開ける。
「今、いい?」とベランダの恋人が尋ねる。「いいよぉ」わたしはそう答え、ベランダに置いた椅子に座る。

 南西を向いた広いベランダからは、公園に隣接したテニスコートが見える。制服を着た女子高生がスカートを翻しながらラケットを振っている。その向こうにはマンションが林立している。そのマンションの隙間を、箒に乗った魔女のように風が通り抜ける。

 わたしたち夫婦は、カナミが幼稚園の年中の頃にこの中古マンションを買った。
 13階建てのマンションの7階。そろそろ小学校を視野に入れて家を探したのだが、ベランダの広さに一目惚れした。
「ここに椅子とテーブルを置いてビールを飲むといいね」と夫が言って、ベランダ用の白い椅子と小さなテーブルを購入した。
 夏の夕暮れなど、そこでビールを飲む日ももちろんあるのだが、それ以外の日はわたしの専用のようなものだ。

 夕方、子供が帰ってくる前くらいの時間に、ベランダの恋人と電話で話したりする。
 今日の天気のこととか、地下鉄で読んだ本の話とか、たわいものない話をしながら、わたしは洗濯物を取り込んでテーブルの上に放ってゆく。
 冬の日の太陽がマンションのすきまに沈んでゆく。少しずつ軌道をずらしながらも、同じように沈んでゆく。
 退屈で昨日と今日の区別もつかないような一日も、言葉にすることで、ある種特別な一日になることを知った。
 言葉に変えることは、わたしたちのあいだで実体を持つことなのだ。ひとつひとつの出来事が言葉に変わってゆくのは楽しい。

 ベランダの恋人は遠いところに住んでいるのでめったには会えない。
 半年に一度とか一年に一度会えないことはないのだが、会っているときは楽しくて、そのあとは会えないのがさみしくなる。
 
 ベランダの恋人にはセックスが不似合いだ。
 めくるめく瞬間と、日常とのギャップで、わたしは帰るべき場所を失う。名前を持たないセックスは暴力的に日常を壊してしまった。ひとたび壊してしまったあとで、それがわたしたちの望みではないことにようやく気づいた。それからわたしたちは、もっともっと、穏やかに長らえることを選んだ。
 選べるまでに、とてつもなく長いぎくしゃくとした時間が流れた。それでもわたしたちがそれを選んだのは、けして間違いではなかったと思っている。

 ある日、わたしはその男のことを「ベランダの恋人」と名前をつけた。ベランダの恋人はその日から、夕暮れの空を通して繋がれるようになった。少しだけわかった。すべての関係には名前と適切な距離が必要なのだ。

 ここのところ一ヶ月ほど、ベランダの恋人からの音沙汰がない。
 メールを打っても返信さえもない。わたしは毎日、夕方ごとに携帯電話を持ってベランダに出た。携帯の電源は切れているようにも思えた。
 最後に話したのはどういう内容だったのか? 
 職場の検診でひっかかって、再検査に行かなければいけない、何事もないといいんだけどね。たぶん何もないよ。すごく元気そうな声だもの。でも、安心するために再検査するのは悪いことじゃないよ、そういうやりとりだったと思う。

 あれから何がどうなったのか? ベランダの恋人は病気だったのか? それともなにか別のトラブルを抱えたのか? それとも、もう、こんな関係はやめようとある朝ふっと思い立ち、わたしの携帯を着信拒否にしたのか?
 不自由な想像力は、悪い方向に走りだそうとするばかりだった。
 そうだ。いつもそうだ。
 わたしは悪いことばかりを想像する臆病な人間だったのだ。
 そうじゃないのは、ベランダの恋人がオプティミストだったからだ。
 わたしは、毎日家族の夕飯を作り、夫とビールを飲んだ。なのに、たったひとつの不安で、すべての景色が色褪せてしまっていた。夜になってベランダに鍵をかけてカーテンを閉めてしまう。するとそれだけでベランダの恋人の記憶をすべてを置き去りにしてしまうような気がした。    わたしのまったく知らないところで、ベランダの恋人は別の日常を生きている。それがどんなことであろうとも私は知らないままでいるしかない。今、もし、ベランダの恋人が遠い町で死に絶えていたとしても、わたしはそれすらも確認できないのだ。そう思うと、心の中に小さな黒い毛糸玉のようなモヤモヤがいくつも転がっていった。

 クリスマス休暇に入った。
 よけいにベランダの恋人は遠くなった。なにがあったとしても家族がベランダの恋人を支えてくれるだろうし、あるいは彼が家族を支えていることだってあるのだろう。
 そうしてわたしもまた、わたしの家族にそうすることが必要だった。

「今日はみんなでアイスクリームを食べに行こうか」と、その日夫が言って、わたしたち家族は流行のアイスクリームショップに並んだ。
「食べ終わったら、みんなのクリスマスプレゼントを選ぼう」
 日常ではないイベントにカナミが喜んだ。
 アイスクリームショップは長蛇の列だった、いろんな種類のアイスクリームの色鮮やかなメニューを見つめながらカナミも辛抱強く並んだ。
 そしてわたしたちの番がやってくる。
「今日はおまたせしてすみません。クリスマスだから、うたをうたいながら作りましょうね」
 小さなカナミにそう言って、ショップスタッフがみんなで声を上げてうたいながらアイスクリームをアレンジしていった。
I wish you a merry ice-cream! I wish you a merry ice-cream!

 カナミがぎゅっとわたしの手を握った。驚きと喜びの鼓動がその手がら伝わってきた。夫がその様子を笑いながら見ていた。
 クリスマスの魔法の粉を振りかけたアイスクリームにカナミが目を丸くして喜んだ。

 あたたかい歌声だった。
 そうだ、こんなふうに祈ればいいのだ。
 祈るのだ。悪いことを考える前に、いいことに変わるように祈るのだ。
 祈ればいい。
 悪いことを想像する前に、いいことに変わるようにと祈ればいいのだ。
 それだけで、世界の景色は、こんなにも簡単に変わってゆくのに。

 下を向いて、甘いアイスクリームをつつきながら、少しだけ泣いた。
 涙でアイスが塩味にとけるのを悟られないように、静かに、わたしは自分の中のペシミストのわたしを溶かしていった。

 夫にはトミーヒルフィガーのマフラーを選ぼう、カナミはなにが欲しいのだろうか、なんでも欲しがりだから時間がかかるかもしれない。彼女ができるまで、ゆっくりと時間をかけて選んでゆけばいい。
 それから、家に帰ったら、ちょっとの時間をかけてベランダでメールを打とう。

 届いても届かなくてもいい。
 届かない気持ちのやりとりで、世界がくるくるとその風景を変えてゆくなら。
 わたしは、ベランダの恋人のための、わたしたちの世界の風景を作っていけばいい。

 I wish you a merry Christmas!

 わたしたちの家族がその瞬間を楽しんでいるのと同じように。
 ベランダの恋人にもその気持が届きますように。



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posted by noyuki at 22:51| 福岡 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 詩とか短文とか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月02日

「正午派」 佐藤正午 小学館

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ひとりの小説家が、作家活動をするにあたって、長編の小説のほかに、1000文字程度の短編、地方紙への雑文など書くことはよくあることだと思う。
が。その短い文章たちは一体そのあと、どこに行くのだろうか? などとは思いもしなかった。

それを本にまとめようと思う熱意のある編集者がいた。
どんなに短い文章も、ひとつももらさずに読みたい。そう読者に思わせる作家がいた。
それはすごいことだと思う。

「正午派」には、地方紙に書かれた人生相談、佐世保のフリーペーパーに書かれた自著の解説、文芸誌きららに書かれた1000文字小説、映画化がまだ実現していない小説の脚本などが、集められている。
そして、作家の部屋の写真。
書かれた全作品が今、どの本で読めるのかという全リスト。
宝箱のような本だ。

短編の、そして超短編の寄せ集めであるがとにかく引き込まれる文章。
そしてオーバーラップする数枚の写真を見ていて確信する。

世の中には「正午派」と呼ばれる生き方があることを。
そして、自分自身がまちがいなく「正午派」であることを。
そして、自分だけではない、「正午派」は、日本のいたるところに生息している。
繋がってないようで繋がっている。
それを確信させてくれる本。

ひとつの作品を例にあげるなら、「きらら」の1000文字小説として書かれた「愛人シリーズ」をぜひあげたい。
作家には月曜日の愛人、火曜日の愛人、と、6人の愛人がいて、そして日曜日は愛人のいない休日となる。こういうふうにおおまかに言うと冗談のような連作だ。
ところが、曜日ごとの愛人に対する愛情がとてもいい。
いけないところも、与えてくれるものにたいしても、等しく受け入れられ、愛されている。
うらやましい。ぜひとも愛人になりたいとさえ思う。

この「愛人シリーズ」をはじめ、等身大でいて、文章の達人である作者のスタイルが満載の本。
ぜひとも、いろんな方に手に取ってほしいと思う。

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posted by noyuki at 14:02| 福岡 | Comment(5) | TrackBack(0) | 佐藤正午系 盛田隆二系 話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする