2010年05月31日

「オレンジ」



 膝をついた格好で直立している。
 膝と膝の間には男の胸板がほどよく収まっており、その身体をもっと足元の方まで辿ってゆくと、身体と身体が直角に近いカタチで繋がっている。
 だけど、あたしの視界からはそういうふうには見えない。
 目をつむっている男の顔が、あたしのゆるやかな振動を受けて、ピントのぼやけた画面のようにブレている感じ。
 もっとも視力はすでに集中力を失っていて、意識は下腹部の奥の方の、小さな波が寄せては返すもどかしさ、もっと大きな波がまもなくやってくるであろう確信に満ちた予感の方に集まっている。
 そうして予想通りの大波がやってきて、のみ込まれる。
 きゅん、きゅん、きゅーんとした身体の震えに、意識が一箇所に集まって、力が抜ける。 
 あたしの外側は何ひとつなくなってしまう。
 男の身体も、腰骨を支えている男の両腕も、ベッドのきしみも。
 浮かびあがる球体が大きく膨らんで、それが粉々に分散して、波が引いていくのを待つだけの時間。
 その一瞬、あたしの外側は何ひとつなくなってしまう。

 つぎに気づいたときのあたしは、男の胸板に重なるように倒れ込んでいる。
 息がまだ荒いあたしを、男の両腕が支えていてくれていた。

*     *     *

「もう、こういうことはしない方がいいと思っているんだ」
 うん。しないにこしたことはないと思う。
 でも、正確に言うとあたしにはその逡巡はわからない。

 それなら最初から会わなければいいんだ。あたしに誘われるままにお酒を飲みすぎたりしてはいけないし、ホテルに誘われてもそのまま帰らなければいけない。
 ジーンズのベルトにあたしの手がかかろうと、けっして反応しないくらいの強い意志がれば、あたしだってそんなことはしない。

 男は、あたしの強い欲望を待っている。
 言い訳したり、自信がなかったり、覚悟がなかったりしながら、あたしがその場所へ連れていってくれるのを待っている。
 
 あたしは連れていかないよ。
 さっさとそう言ってしまいたいところだが、男の心の中にある、待ちの余白をあたしは見逃すことができない。
 
 見逃すことのできないあたしの暴力的な欲望に、男もあたしもしがみついているのだ。

*     *     *

 あたしたちが気の合う友達のままでいたら、何度も長電話したりいっしょにごはんを食べたり、もっと屈託なくできたに違いない。
 気の合う友達という位置はいつだって最適だ。
 そこにいるかぎり、けっして暴風雨が吹き荒れる日もこないし。
 わけのわからないものに翻弄されることもない。

 だから、最初にそう決めておくべきだったのだ。

 結局あたしたちはコイビトになることはできなかった。
 長い時間つきあってみて、それがわかった。
 コイビトという言葉の持つゆらぎとか、引き受けるべきものは重すぎて、とっくに放り投げてしまっていたし、放り投げることによってある程度傷つけあうこともあたしたちは十分に味わっていた。

 だけども、それで関係を断ってしまうほどの強さも持ち合わせていなかった。

 おそらくそういうカップルは世界中に、掃いて捨てる場所がないくらいに、たくさんいるような気がする。
 
 関係というのは、紙に書かれて定義されるような契約書のようにクリアじゃなくって、すごーくあいまいなものなのだと思う。

*     *     *

「ナオちゃんとはセックスしたんだよね?」

 あたしは、男の上に重なったまま、話のついでのふりをして尋ねる。
 
「やってないよ」 男は目をつむる。「家も近いし、共通の友達も多いからね。飲みに行ったりカラオケに行ったりすることはあるから、チャンスがないわけでもないではないけれど。でもね、やってないんだ」
 ウソかもしれない。ほんとかもしれない。
 あたしは、注意深く、接合した部分に意識を集中する。男が動揺していれば、屹立したものはそこにはなくなっていくはずだ。

 あたしのそういう集中を見透かした男は、やはり下半身に意識を集中する。
 だから、結局はそれを見極められない。

 あたしはことばを信じることにする。
 本当でもウソでもいい。ことばというカタチを持つものは、男の気持ちだから。気持ちの部分だけでも信じることができればいいからだ。

*     *     *

 朝まで飲んでいたという男が電話をしてきた。
 もう、大丈夫、お酒は抜けたから。
 お昼すぎにそうやって電話してきたのに、男は少し酔っている。

 なんでわかるかっていうと。
 彼は今、酔ってなければけしてできないような話をあたしにしているからだ。

「あのとき、ナオちゃんとやったかってどうして聞いたの? たしかにやったよ。でも、誰もそのことを知らないんだ。どうしてそう思ったんだ?」
 直感みたいなものだ。
 直感としか言いようがない。
 その直感を導き出した細部ももちろんあるのだけど、それについては言わない。
 その細部は何度もあたしに、わけのわからない感情をつきつけてきたのだから。

「ユウコと知り合う前の話だよ。ほんとに何度も何度もやったのは。今はもうしないんだ」

 かつてコイビトを目指していたあたしたちは、それをうまくやり通すことができずに一時期疎遠になっていた。
 ナオちゃんと飲みに行くようになったのはたぶんその頃だから、あたしと知り合う前というのは記憶ちがい、もしくはウソだ。
 あたしたちには共通の友人も多いし、どのグループで飲みに行くことが多いのかなんて情報を、あたしは意外と間違わない。

「ほんとに。知り合いの誰も知らないことなんだ。なんでユウコにわかったのか。正直びっくりしたよ」
 あたしと別れたからつきあったなんて都合のいいことは思わない。
 男はほんとになおちゃんが好きなのだと思う。
 だから、秘密にしておけなかったのだ。
 誰かに言いたくてたまらなかったのだ。
 そして同時に。
 あたしに秘密にしておけなかったのだ。

 何もかもあらいざらいにぶちまけてしまいたい衝動。
 そんな波はなにかの機会に、音もなくやってくるものだ。

 よくわかる。
 あたしはよくその衝動を感じていた。
 このまま、夫に洗いざらいぶちまけて、泣きながら許しを乞いたい衝動。

*     *     *

 それからあたしは夢を見る。
 
 男となおちゃんが腕を組んで歩いている夢。
 何度も何度も同じ夢を見る。

*     *     *

 本気で誰かを所有したい人間は恋愛なんてしちゃいけない。
 
 だから、そういう人間になるまい、男の前ではそういう人間ではいまい、と思いながらも、あたしは、自分のそういう部分に目を閉じることができない。

 バカだなあと思う。
 あたしはあと何度か、あの嫌な夢を見るのだろう。
 なおちゃんは、長い髪をなびかせて、それじゃあねって、あたしに言って、それから男と腕を組んで帰ってゆく。
 そんな感じの夢だ。

「ごはんだよ」
 子供の声が電話口の向こうで男にそう告げていた。
 そうして男は電話を切る。

 ほら。

 あたしたちはたくさんの現実を持っているじゃないか。
 いつまでも、モラトリアムの大学生じゃないんだから。

 あたしも夕飯を作ろう。
 窓の外には大きなオレンジ色の夕日の球体。

 落ちるまぎわの夕日がエクスタシーの瞬間の色に見えた。
 カーテンを閉めよう。
 夕飯はなににしよう。

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posted by noyuki at 16:28| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 詩とか短文とか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月28日

「それはたぶんたいしたことじゃない」8

「 タミー」 3


 ショップの中堅になった頃から遅番の仕事が多くなった。
 レジを締めたりの仕事もあるし、在庫の管理や商品の注文も必要になってきたからだ。

 イタリア系の少しだけ高めのブランド。
 大学での専攻は英米文学だったけれど、第二外国語がイタリア語だったことが縁だった。ある程度のイタリア語の知識が必要だったのはたしかだったけれど、専門的なバイヤーではなく、あくまでショップの店員だ。
 大学まで出て店員の仕事なんて、と時代錯誤の両親が嘆息した負い目はあったけれど、就職氷河期に就職が決まっただけでもラッキーだった。

 この仕事は嫌いではない。マネキンに入荷したばかりの服を自分の手で着せられる。
 日本にはない色彩のプリント柄の服などには心踊った。お誕生日に着せ替え人形の新しい服を買ってもらったときの、はじめて袖を通したときのわくわく感そのままの自分が、今もここにいるような気がした。

 もちろん、マネキンだけを相手にするわけではなかったが、お客さんが新しい服を試着するときもそのわくわく感はあった。
 服の色合いひとつで、顔に明るい光が指すような瞬間をこれまで何度も見てきた。
 それは自分に対しても同じだ。
 
 中身なんて関係なく、人はどれだけでも違う自分になれることができる。
 服を通してタミーは、そのことを知ったような気がする。
 わたしは、どんなふうにだって変われる。

 タナカさんが日記に、(シックな色合いのものが好き)って書いたときに、彼女に入荷したばかりのピンクとくすんだブルーの幾何学模様のストールをプラスしたらどんなに素敵だろうと思った。 
 だけどそんなことは思うだけで書かない。

 タミオが着ているのは、いつもチャコールグレーのスーツだ。ネクタイの柄がいつも同じようなレジメンタルであることを上司に注意される。高いマンションを契約するには、それ相応のネクタイが必要なのだというのが上司の持論だからだ。(タミオの日記による)
 
「横浜に行くことになりました」
 ある日、タナカさんが日記にそう書いた。
 長期の休みを利用して、高校時代の友人の住む横浜に滞在するというのだ。
「う〜ん、残念。そのあたりは研修で身動きがとれません。お会いしたかったなあ」
 予防線をはるような言い訳。
「それは残念! 中華街にでもお誘いしたかったのに。以前言われてましたよね? 中華はだんぜん人数が多い方が楽しいって」
「そうそう。中華は人数の多い方が楽しいよね。いつか中華をごちそうしましょう」
「え? ご馳走になってもいいんですか?」
「大丈夫、オトナですから。次にタナカさんがおこしの際にはお友達もご一緒にどうぞ」
「( ^ o ^ )/」

 なにをやってんだ、わたしは。
 本当にそうする勇気なんてないくせに、こんなウソばかり並べ立てる。
 タナカさんを受け入れる覚悟なんてないくせに、なんでも受け入れてるようないい顔をしてみせる。
 
 いっそ、メールして本当のことを洗いざらい話してしまいたい衝動にもかられた。
 ウソついてごめんね、わたしはあなたよりも10歳以上も年上の女性なんだよ。
 若くて純粋でキラキラして才能あふれたタナカさん。
 彼女になにもかもぶちまけて、それでいて、何でも話せる友達でいられたら、どんなに素敵だろう。
 
 だけど、きっと、もう、遅いんだ。
 
 タナカさんの中にあるキラキラの中には、見たこともないタミオに対する淡い感情が溢れていたから。
 それを、自分の都合でリセットすることの残酷さは痛いほどわかっていたから。

 彼女の気持ちを引き受ける覚悟もないくせに、嫌われるのは怖くて、それでいて、恋心のオーラは心地よく嬉しくて、いつまでもそれを感じ続けていたい。
 そんな自分の気持ちに嫌悪しながらも、タミーにはだんだんわかってきた。

 そうか。
 
 あの男もあのとき、そういう気持ちだったんだ。

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posted by noyuki at 16:40| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | それはたぶんたいしたことじゃない | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月06日

それはたぶんたいしたことじゃない 7

「タミー」2

 豊富なコミュニティが魅力のSNSだった。
 奥田民生のアルバムの情報が欲しかったし、仕事先で扱う女性服ブランドのクチコミの評判も知りたかった。最近はやりの本も読んでみたいけれど、どれがいいのかも全然わからないので、本のコミュニティにも入ってみた。

 ときどきコメントを書いてみるのは、新刊本のコミュニティだ。
 若い書店員の女性が、聞いたこともない作家の本を紹介してくれる。また専業主婦らしき女性が毎日のように文庫の本の感想を書いてくれる。
 女性が多くて、しかもゆったりした感じで、なじみやすい雰囲気のコミュニティだった。実際にそのコミュで評判になったおかげで有川浩のおもしろさを知った。

 それでつい、ここで見つけて読んでみておもしろかったとか、ひとこと感想を書くようになったのだ。
 少しだけ、注意して文体を考えてみる。
「帰りの駅の書店で、見かけて買ってみました。すごくおもしろかった。ぼくのお気に入りの作家になりそうです」
 「ぼく」なんだ.......「わたし」じゃないんだ。
 自分でそう書いてみるとなんだかわくわくした。

 それから日記も書いてみた。
 27歳の営業の男性。信頼していた上司が転職したせいで新しい上司に苦労していること。よその部署だった上司は勝手がわからずに年配の女性社員によく怒られてること。年配の女性社員はときどきお弁当を持ってきていて、おかずを作った残り物だって言うけれどそれがすごくおいしそうに見えること。柑橘系のコロンは嫌味じゃないけれど、毎日だと飽きるなあ、トイレの香水みたいだ、とか。
 残業すると、駅の本屋が閉店してしまうんで、せっかく買おうと思ってた本をいつまでたっても買えない、とか。
 内容はまるっきりウソじゃなかった。愚痴を書くときはほぼ100%本気だ。だけど少しずつ、シチュエーションを変えていくと、まるで他人事のようにおもしろおかしく思えるから不思議だった。

 最初にコメントをくれたのは、文庫本ばかり読んでいる主婦のみるくさんだった。
「タミオくん、がんばれ! 誰かが陰ながらみてくれてるよ」って。
 それから書店員のタナカさんもときどき書いてくれるようになった。
「お互い、仕事の人間関係は面倒ですね」って。
 それからみるくさんの仲良しのポピーさんも、遊びにきてくれるようになった。
 
 なんだか嬉しかった。
 タミオは草食系なんだろう。あまり警戒されてないような気がする。
 考えてみればあたりまえだ。男じゃないんだから。

 タミオは書店員のタナカさんと、ことのほか話がはずんだ。
 イラストがうまくて、ちょっとヲタクっぽいエッチな女性イラストとかを描いてはアップしている。
 タミオは本気で喜ぶ。
 「わ、すごい。ちょっとドキッとしたよ。もっとこんな感じのヤツ、いっぱい描いてください」
 タナカさんは褒められるとやっぱり喜ぶ。まだ21歳の大学生だという。書店の方はどうやら夕方からのバイトらしい。
 
 タナカさんがまぶしかった。
 ネイルをきれいに塗った指のアップを載せてみたり。髪の色を夏はうんと明るくしてみたり。それを逐一日記に書いてくる。ぼくも女性だったらそんな爪にしてみたい、とってもかわいいです、とタミオが言うと、ぜひぜひ、男性でもやってみて!なんて返してくる。

 ごめん、タナカさん。実を言うと、わたしの爪や髪にはたぶんあなたの何倍もお金と手間がかかっているんだ。だけどショップで働いてると、それが少しだけ当たり前になるだけのこと。あなたみたいに自分の好きにやって喜んでいるわけじゃない。
 若いときはわたしもタナカさんみたいだったのだろうか? 真希はパソコンの画面を見ながらそう考える。
 嫌味のない素直さ。
 そんなもの持ち合わせてなかった。
 タナカさんの書くものは文章も絵も、完成品ではないもののキラキラしててとても気持ちよかった。どこか真似ている感じのイマドキのものだったとしても、そこには真似できないキラキラがいつもあった。いろんな才能があるんだろう、なのにプライド高いわけじゃなくて、もっとささやかなところで楽しんでいる。
 そしてタミオは、知らない人格である気安さも手伝って、それを手放しで褒めている。
 タナカさんはいつしかタミオを信頼する年上の友人のように扱ってくれるようになっていった。

 いや。
 友人以上に思ってくれているような気がする。
 面と向かってなくても、ただの言葉の羅列でも。
 そういうことは、なんとなくわかるものなんだ。

 会ったこともないタナカさん。
 わたしは、あなたよりも10歳以上も年上の女で、ウソの人格を楽しんでいるような人間なんだよ。

 胸の中はときにはあたたかさでいっぱいになって。
 そしてときには、そのあたたかさが溢れすぎて痛くなったりもした。




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posted by noyuki at 15:19| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | それはたぶんたいしたことじゃない | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする