膝をついた格好で直立している。
膝と膝の間には男の胸板がほどよく収まっており、その身体をもっと足元の方まで辿ってゆくと、身体と身体が直角に近いカタチで繋がっている。
だけど、あたしの視界からはそういうふうには見えない。
目をつむっている男の顔が、あたしのゆるやかな振動を受けて、ピントのぼやけた画面のようにブレている感じ。
もっとも視力はすでに集中力を失っていて、意識は下腹部の奥の方の、小さな波が寄せては返すもどかしさ、もっと大きな波がまもなくやってくるであろう確信に満ちた予感の方に集まっている。
そうして予想通りの大波がやってきて、のみ込まれる。
きゅん、きゅん、きゅーんとした身体の震えに、意識が一箇所に集まって、力が抜ける。
あたしの外側は何ひとつなくなってしまう。
男の身体も、腰骨を支えている男の両腕も、ベッドのきしみも。
浮かびあがる球体が大きく膨らんで、それが粉々に分散して、波が引いていくのを待つだけの時間。
その一瞬、あたしの外側は何ひとつなくなってしまう。
つぎに気づいたときのあたしは、男の胸板に重なるように倒れ込んでいる。
息がまだ荒いあたしを、男の両腕が支えていてくれていた。
* * *
「もう、こういうことはしない方がいいと思っているんだ」
うん。しないにこしたことはないと思う。
でも、正確に言うとあたしにはその逡巡はわからない。
それなら最初から会わなければいいんだ。あたしに誘われるままにお酒を飲みすぎたりしてはいけないし、ホテルに誘われてもそのまま帰らなければいけない。
ジーンズのベルトにあたしの手がかかろうと、けっして反応しないくらいの強い意志がれば、あたしだってそんなことはしない。
男は、あたしの強い欲望を待っている。
言い訳したり、自信がなかったり、覚悟がなかったりしながら、あたしがその場所へ連れていってくれるのを待っている。
あたしは連れていかないよ。
さっさとそう言ってしまいたいところだが、男の心の中にある、待ちの余白をあたしは見逃すことができない。
見逃すことのできないあたしの暴力的な欲望に、男もあたしもしがみついているのだ。
* * *
あたしたちが気の合う友達のままでいたら、何度も長電話したりいっしょにごはんを食べたり、もっと屈託なくできたに違いない。
気の合う友達という位置はいつだって最適だ。
そこにいるかぎり、けっして暴風雨が吹き荒れる日もこないし。
わけのわからないものに翻弄されることもない。
だから、最初にそう決めておくべきだったのだ。
結局あたしたちはコイビトになることはできなかった。
長い時間つきあってみて、それがわかった。
コイビトという言葉の持つゆらぎとか、引き受けるべきものは重すぎて、とっくに放り投げてしまっていたし、放り投げることによってある程度傷つけあうこともあたしたちは十分に味わっていた。
だけども、それで関係を断ってしまうほどの強さも持ち合わせていなかった。
おそらくそういうカップルは世界中に、掃いて捨てる場所がないくらいに、たくさんいるような気がする。
関係というのは、紙に書かれて定義されるような契約書のようにクリアじゃなくって、すごーくあいまいなものなのだと思う。
* * *
「ナオちゃんとはセックスしたんだよね?」
あたしは、男の上に重なったまま、話のついでのふりをして尋ねる。
「やってないよ」 男は目をつむる。「家も近いし、共通の友達も多いからね。飲みに行ったりカラオケに行ったりすることはあるから、チャンスがないわけでもないではないけれど。でもね、やってないんだ」
ウソかもしれない。ほんとかもしれない。
あたしは、注意深く、接合した部分に意識を集中する。男が動揺していれば、屹立したものはそこにはなくなっていくはずだ。
あたしのそういう集中を見透かした男は、やはり下半身に意識を集中する。
だから、結局はそれを見極められない。
あたしはことばを信じることにする。
本当でもウソでもいい。ことばというカタチを持つものは、男の気持ちだから。気持ちの部分だけでも信じることができればいいからだ。
* * *
朝まで飲んでいたという男が電話をしてきた。
もう、大丈夫、お酒は抜けたから。
お昼すぎにそうやって電話してきたのに、男は少し酔っている。
なんでわかるかっていうと。
彼は今、酔ってなければけしてできないような話をあたしにしているからだ。
「あのとき、ナオちゃんとやったかってどうして聞いたの? たしかにやったよ。でも、誰もそのことを知らないんだ。どうしてそう思ったんだ?」
直感みたいなものだ。
直感としか言いようがない。
その直感を導き出した細部ももちろんあるのだけど、それについては言わない。
その細部は何度もあたしに、わけのわからない感情をつきつけてきたのだから。
「ユウコと知り合う前の話だよ。ほんとに何度も何度もやったのは。今はもうしないんだ」
かつてコイビトを目指していたあたしたちは、それをうまくやり通すことができずに一時期疎遠になっていた。
ナオちゃんと飲みに行くようになったのはたぶんその頃だから、あたしと知り合う前というのは記憶ちがい、もしくはウソだ。
あたしたちには共通の友人も多いし、どのグループで飲みに行くことが多いのかなんて情報を、あたしは意外と間違わない。
「ほんとに。知り合いの誰も知らないことなんだ。なんでユウコにわかったのか。正直びっくりしたよ」
あたしと別れたからつきあったなんて都合のいいことは思わない。
男はほんとになおちゃんが好きなのだと思う。
だから、秘密にしておけなかったのだ。
誰かに言いたくてたまらなかったのだ。
そして同時に。
あたしに秘密にしておけなかったのだ。
何もかもあらいざらいにぶちまけてしまいたい衝動。
そんな波はなにかの機会に、音もなくやってくるものだ。
よくわかる。
あたしはよくその衝動を感じていた。
このまま、夫に洗いざらいぶちまけて、泣きながら許しを乞いたい衝動。
* * *
それからあたしは夢を見る。
男となおちゃんが腕を組んで歩いている夢。
何度も何度も同じ夢を見る。
* * *
本気で誰かを所有したい人間は恋愛なんてしちゃいけない。
だから、そういう人間になるまい、男の前ではそういう人間ではいまい、と思いながらも、あたしは、自分のそういう部分に目を閉じることができない。
バカだなあと思う。
あたしはあと何度か、あの嫌な夢を見るのだろう。
なおちゃんは、長い髪をなびかせて、それじゃあねって、あたしに言って、それから男と腕を組んで帰ってゆく。
そんな感じの夢だ。
「ごはんだよ」
子供の声が電話口の向こうで男にそう告げていた。
そうして男は電話を切る。
ほら。
あたしたちはたくさんの現実を持っているじゃないか。
いつまでも、モラトリアムの大学生じゃないんだから。
あたしも夕飯を作ろう。
窓の外には大きなオレンジ色の夕日の球体。
落ちるまぎわの夕日がエクスタシーの瞬間の色に見えた。
カーテンを閉めよう。
夕飯はなににしよう。
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