大学生くらいのときからもう何年も何年も自分は変わってなくて一生このまま生きていけるって思っていたのに、ある日突然、もうそういうわけにはいかないのだ、本当のオトナとしての決断とか狼狽とか苦労とかそういう中で自分は生きていかなければならないのだと、思ったことがあった。
オトナはオトナ同士の世界で生きていくわけではない。オトナは年老いた者や無力な子どもや理不尽や暴力や、そういうものをすべてこの手で抱えこんでオトナの生活をするものなのだ。
そう思う年齢になったときの行き場のない感触を、なぞるように夢中でこの小説を読んだ。
(もちろん、小説の登場人物たちは、私自身など比較にならないくらいのハードな人生を送っているのだけれど)
独身のサラリーマンである周吾は、認知症の父親を介護施設に入れることになる。
一筋縄ではいかない手続き、今後のこと、病気をしたときの連絡に忙殺される。
そして介護施設の職員である乾あかりは、場面緘黙症の娘志歩を抱え、そしてDVの果てに離婚した過去を持つ。
登場人物たちはみな、生きていくのも大変な毎日の中で知り合い、そして心を通い合わせる。
盛田隆二さんの小説では、ストリートチルドレンから一貫して「疾走する」感触にひりひりさせられた。
日常を描く作品でもそれは変わらない。読後にはいつも激しい潮流が感じられた。
「二人静」でもその感覚は変わりないのだが、今回はその中にいくつかの「静の場面」がとても心地良く広がっていたように思う。
周吾と、会話ができない志歩とのあいだで行われる携帯電話を介したやりとり。周吾とあかりの会話、認知症の父親に向けるやわらかな視線。
そのひとつひとつが、青空に流れるバイオリンの音色のように美しく心の中にとどまる。
「疾走」のなかにある「静」が、かけがえのない美しいものになって読者の心にとどまる、そんな作品だと思う。
以下、小説の結末について。(ネタバレを含みますのでご注意ください)
わたしは当初、あかりの夫の弁護士と周吾のやりとりがあまり好きではなかった。
馬鹿げている。なんでこんなひどい人に対して「更生するための手助け」をしようとするのか?
たしかに「守るために何かをしたい」のはわかるが、あまりにも人がよすぎるのではないか?
そうして弁護士との会話の果てに着地点が見つかり、それが結末へと広がってゆく。
読み終えた今では、あのときの周吾の行動はわたしに大切なことを伝えてくれているように思う。
たぶんこれから、わたしはそのことをひとつの指針として生きていくだろう。
やり場のないほど追い詰められても、怒りはなんの解決も持たない。
本当の意味で、やり場のないものを乗り越えるために必要なのは、周吾の踏み出した一歩、そしてあかりや他の登場人物たちが持っているようなものなのだと思う。
そういう意味で、これは私にとって、とても大切な作品。
そう思って本を閉じたら、また、読後に静かな青空のバイオリンが広がっていった。
人気ブログランキング へ
