「ライ麦畑」1
無人島でリョウちゃんとふたりっきりになってしまった。
比喩でもなんでもない。
まがりなりにも本物の無人島だ。
大声で叫んでもふたり。
ああ、空が青いなあ。ちぎった綿あめのような雲が、気づかないくらいにゆっくりに流れている。
冗談みたいな青空。
あたしが砂浜にへなへなと座り込むと、その隣にリョウちゃんがちょこんと下を向いて座った。
「無人島体験ツアー」は今回の旅行のメニューだった。
港から船に乗って無人島を体験。とは言っても20分ほどの乗船で行ける、ゆっくり一周回れるくらいの砂浜だ。小さい東屋だってある。
降りて30分ほど砂浜で貝やヒトデや漂流物を探したり散策したり写真を撮ったりして、また船で帰る。
とても簡単はツアーだ。
あたしの働く福祉施設が、ここのツアーに参加したのは、近隣の施設と合同だし、主催団体がすごくサポートしてくれるっていう評判だったからだ。
実際にそのとおりで、打ち合わせも綿密で、車椅子の人でも自閉症の人でも大勢のスタッフでフォローしてくれた。こんな機会でもなければ、みんなで旅行なんてできない。
無人島ツアーのあとは、リゾートホテルで地元の団体との交流会。ホテルにチェックインしたら海の幸満載のシェフ自慢の料理でパーティの予定だった。
ところが予定どおりにはいかなかった。
「いや、いや! 怖い! 乗らない!」
そう言ってリョウちゃんが暴れた。行きの船でも猛烈なエンジン音でパニックだったのだ。あげくに、帰りの船には乗らないと砂浜にひっくり帰る。主催者のスタッフが二人がかりでスレンダーなリョウちゃんを抱えてくれたものの、暴れて暴れて、すごい力で抵抗する。
出発時間が迫って、まわりの障害者の方たちまで顔色が悪くなっていくのがわかり、ああ、どうしようと泣きたくなってしまった。
「これ以上時間を遅らせるわけにもいかないのです。他のお客様もいらっしゃいますし」
ツアーコンダクターの西田さんがすまなそうに言った。
「30分あとに、もういっかい船が来るのですが、そのときにお迎えするのは可能でしょうか?」
可能だと思います。直感でそう答えた。いや、それしかないんだろうな。
「わたしどもの別のツアーがこの島に来ます。そのあとのホテルも一緒です。あちらの担当もベテランで、うまく対応できます。申し訳ないのですが、この状態で乗船しても危険なような気がしますし。30分、ここで待たれてなんとか落ち着かれたりはしないでしょうか?」
ピンク色のチークも明るい西田さんはどちらかというと新人さんの部類ではないだろうか。汗で化粧もとれてしまって、困って泣きそうな胸のうちが手に取るようにわかる申し出だった。
「しばらく落ち着くと場面転換ができると思うのです。わたしとふたりで静かに過ごして、つぎの船に乗るように言い聞かせます」
そう言って、出てゆく船を見送った。
今まで2年間リョウちゃんにつきあった経験からして、パニックがおさまれば、できるような気がした。でも、ほんとに大丈夫なんだろうか?
みんなが心配そうにこちらを見ながら、それでも船は出ていった。
あたしは無理に作り笑いをして手を降って見送って、そのあとはへたりこんで、砂浜に腰をついた。
ライ麦畑からいきなり転落したような気分だった。
ライ麦畑。その言葉を今思い出すのもおかしかったけれど、大きな音や知らない場所がこわいリョウちゃんを守ろうとするとき、自分が「ライ麦畑でつかまえて」の主人公みたいなライ麦畑の番人になったような気がしていた。
そういう仕事にやりがいを感じていたといえば嘘になる。むしろ逆で、失業する前みたいにバリバリ何かを販売するような仕事に戻りたくてしかたなくて、でも、せっかく見つけた仕事を辞める勇気もなかっただけだった。
ただ、大きな音や話し声が苦手なリョウちゃんは少しあたしと似ている気がしていた。そんなときたまたま「ライ麦畑でつかまえて」を読んだものだから、ああ、こんな仕事だと思うといいのかな、と思ったくらいだ。
彼女がライ麦畑から転落しないように見守るくらいならできるだろう。
もともと専門外だからいつまでやれるかわからないけれど、それでも「ライ麦畑の番人」という設定は自分の中では悪い感じではなかった。
でも、あっというまに転落してしまったな。
ほんと、見守っていたつもりでも、あっというまだ。
真っ白なカモメが青い空と青い水平線をいったりきたりしながら旋回していた。
「ゆう子さん、ゆう子さん」そう言いながら、リョウちゃんは体操座りの膝であたしの膝でつついていた。
「ゆ・う・こ・さーん」
そう言いながら何度もつつく。
どうやら、パニックはひとまず収まったらしい。
今、リョウちゃんは、「なんだかわるいことをしてしまったな」と思ってるんだろうな。
そういうとき彼女は繕う。
きちっと理論だてて反省したり改善できたりはしない。
だけども、それでも、なんとなく繕う。
「しょーがないなあ。リョウちゃん、つぎの船が来るまでふたりでゴロゴロしていようか。それから、ちょっとしたら船がくるんだよ。今度は、その船に乗って帰るんだよ」
「はいっ」
そういって何ごともなかったように、自分の膝であたしの膝をコンコンとつつく。
おなじリズムでコンコンとあたしもつつき返してみた。
コンコン。コンコン。コンコンコン。コンコンコン。
調子が乗ってきたので、それに合わせて歌を歌ってみた。
「あ〜らし、あらしっ、オーイエー♪」
リョウちゃんが大きな声でケラケラ笑った。
ゆう子さん、もういっかいっ。
何度も何度もそういうので、何度も何度も繰り返して歌った。
あたし、きっと、つぎの船がくるまでに100回くらいこの歌を歌うんだろうな。
今日、ひとつ、気づいたことがある。
ライ麦畑は段々畑になっていて、いっかい落ちたとしても、その下にはまた別のライ麦畑が広がっているってことだ。
うん、だからそんなに絶望しなくていいんだ、たぶん。
つづく
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