朝、出勤するとミドリ先輩はもう出社していた。キラキラ光るネイルの並んだショーケースの上を乾いた布で熱心に拭いている。
あれ? わたしが早番でミドリ先輩が遅番では? 一瞬考えて、壁のシフト表を見ようとすると、ミドリ先輩が顔をあげた。
「あ、びっくりした? ごめんね。早く来すぎただけなのよ」
あいかわらず隙のない化粧だ。塗りすぎて見えない透明な肌に、これまたシアーなブラウン系のチーク。今日も毛先のカールまで完璧。そして目を細めた笑い顔はどこまでも優しい。
「でも先輩今日遅番なんでしょ? 夜の10時まで12時間もお店にいるんですか?」
あ、そっか、とミドリ先輩は今更気づいたかのようにつぶやく。
「お昼休みを長く取らせてもらうから。早川さんが風邪だし、休日に二人だけだと大変だろうし」
早川さんは数日前から体調が悪くて休みを取っている。私には妊娠したかもって言ってたのに、ただの風邪だったんだろうか?
「さ。日曜日で忙しいけど、サトミちゃんもがんばってね」
そう言ってミドリ先輩はフリスクをいくつか振ってくれた。
ショッピングモールの一角にあるネイルコーナー。
そこがわたし達の仕事場だ。お店と呼ぶほどのスペースじゃない。二人座れば満杯のオープンスペースだ。本店のサロンと別にこんなところで? と思ったけれど、飛び込みのお客さまが多くて、まあまあ繁盛してる。ただし単価は低めだ。
わたしはまだ新人でこっちで若い人相手くらいしかできないんだけど、ミドリ先輩はちがう。すごいアートなネイルだって作れるし、本店で指名されることも多い。
だけど、ミドリ先輩は本店よりもこちらが好きだって言うし、土日はレジ閉めもあるのでこちらに来ることがほとんどだ。変わってるって思う。
ここは人の通りがうるさくて、ネイル作ってても、しょっちゅう誰かが覗いていくし、一番安いのばかり学生がやりたがるようなお店だ。何よりも本店とは格がちがう。
なのに「密室って苦手なの。こっちの方が広くてざわざわしてて安心するの」って言う。
おまけに安いヤツでもすごく丁寧にしてくれる。爪のカタチを褒めて、初めての人にもきちんとお手入れ方法とかも教えてくれて。
おまけに私達スタッフにもいつも優しいし、気遣いの人で、ほんとすごいなあって思う。
ある日、そう言ったら「あら、コツさえ飲み込めば簡単なことなのよ」ってミドリ先輩は笑った。
「それってすごく簡単なことなのよ。自分が言いたいことを言うんじゃないの。相手がなにを言って欲しいかを考えてそれを言うの。だって、お客様っていい気分になりたくていらっしゃるのだから。それを叶えてあげればいいだけなのよ」
それを聞いたとき、はじめてミドリ先輩のことが怖いと思った。
いや、それは客商売としては当たり前なんだけど、ミドリ先輩は少なくともそんなふうには見えなかったのだ。それで、もしかしたら、この人怖い人なのかも、ってはじめて思った。
それからわたしは、夜寝る前とかに時々ふっとミドリ先輩のことを思い出すようになった。そして思い出すと、心に小さなトゲがつきささってるような気持ちになってしまうのだ。
あんなに優しくて、すごくステキなのに。
ミドリ先輩は、わたしに対してももしかしたら、「わたしが言って欲しいこと」を言ってくれてるだけなんだろうか?
(続くかもしれない)
