2014年07月25日

そういえばこないだうどん屋で 備忘録

市内のはずれの県境に近いところに小さなうどん屋があって、休みの日とかときどき食べに行く。
おろしうどんがおいしい。大根おろしがすごく辛くてピリっとしてる。
初夏の夕暮れのおろしうどん、ほんとうに幸せだ。

そして、うどん屋には手垢のついた少し前の週刊誌があって、6/15日号でなんとかポストだったと思うんだけど、それをパラパラとめくってて、ひとつ気になる読み物があって、ちらっと読んだらかなりおもしろくて、結局うどんが来るまでのあいだ夢中で読んだ。

佐世保で以前小学校の同級生に殺された女児の兄へのインタビュー記事だった。
筆者は新聞局の支所に住んでた被害者の父親の部下。ときおり二階の自宅で食事に呼ばれていたという。
事件当初、支局にはたくさんの記者が詰めかけ、若かった彼にはなすすべもなかった。
そして年月がたち、彼は被害女児の兄をインタビューすることになる。
聞いていいものかという怖れもあったが、兄は誰も聞いてくれなかったといい、彼に自分の思いを語る。

自分はふつうに生きたい。だから加害者に対しても、と、彼は言う。
それは宗教的な赦しともちがうし、もっとフラットでシンプルな感覚なのかもしれないと思った。
「気持ちの奥底にあるほんとうの感覚」に出会うのはむつかしい。心の中をきちんと見据えた、とてもすごい文章に触れた気がした。

その日は回転の早いうどん屋をあとにして、その記事のことがずっと頭にあって、ネットでググったら、一冊の本として発売されてることを知った。

もう一度、全部をゆっくり味わって読みたいと思いました。

謝るなら、いつでもおいで -
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posted by noyuki at 22:06| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月06日

ひとり浜辺に打ち上げられて


ラブya!


書くことがなかったり、感じることが平坦だったり、何も溢れてこなかったり、そういうことがすごく怖くなったりもする。
それが今のあたしだ。

たとえば、切ないって言葉を咀嚼しすぎると、切なさは味を失うんだろうか?
たぶん、そういうことじゃないんだと思う。

胸の奥のマグマに触れることができないんだ。
何も溢れてこなくって。
そこに静かにあるだけで。

そこはもう、誰にも触れない場所になってしまっている。
自分なのに触れられないもどかしさ。

「気がついたら、ひとりで知らない浜辺に佇んでいたような気分なんだよ」
おんな友達がそう言った。
たぶん似た感じなんだろうと思う。

いろんな人と繋がっていろんなセカイに影響を受けながら生きているから。
他者なしの自分はあり得ない。
ここ数年は、そういうことばかり考えていた。

だけど、そればかりじゃ生きられないことにもそろそろ気づいている。

胸の奥にあるマグマに届かないんだ。
そこを何度もこの手で触っては持て余していたし。
誰かに触られると、奇跡にように溶岩が流れ出た。

でも、そうだったのは、もう遠い昔のことみたいだよね。

恋とか、憎しみとか、喜びとか、怒りとか、みんな自然に泉のように溢れていて、蓋をするすべさえわからなかった。
そんなふうに当たり前のように触れていたものに、いつのまにか触れなくなったしまったんだよ。
胸の奥底にまだあるのは知っているのに。
遠すぎて、誰にも届かず、届かない分だけ、ひとりぼっちになっていった。

もう自然な放熱をしなくなったわたしたちは、おのおのひとりで佇んでいる。

「のゆきちゃんはわたしより若いし。これからもっとそういうのを感じていくんだと思うよ」
前述のおんな友達がそう言った。

そうかもしれないね。
これから、もっと何も流れ出さない、別の人生が待ってるんだろう。

だけど、流れだそうと、胸の奥にただじっととどまっていようと。
それはいつだってやっかいなものだ。
やっかいさの質が変わってゆくだけで。
わたしはまだ、繋がることで解消されない、自分にも届かない自分を静かに愛している。

そして、それと同時に、誰かわたしをこじ開けてと、もうひとりの私は都合よくも待ち続けてるんだ。

わたしを開けて!


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posted by noyuki at 19:32| 福岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする