インディゴの記憶
今よりもずっと、生きるのがつまらない頃があって、「あの頃の感覚をすべて忘れてしまうのはちょっと切ないなあ」と思って、ときどき思い出してみようとしている。
断片は出てくるけれど、クリアではない。
わたしはもう孤独の中にはいないし、同じ感覚を思い出すことはできないのだ。
あの頃、わたしのまわりにいる人はみな、悪意の塊だった。
わたしがやろうとすることを、止める、邪魔する、非難する、そういう悪意だ。
わたしの小さなあぜ道がまっすぐにのびていた。
その脇には大きな木がそよぎ、それはおだやかなものではない、むしろ荒涼の風景だった。
さみしくはなかった。
誰もがこんな一本道にいると思っていた。
野原はけして居心地よくはなかったが、それでもそこは自分の場所だった。
困ったのは、その道をわけのわからないものが横切り、行く手を阻むことだった。
それが、わたしの言う悪意だった。
実は他の人には、わたしの道が見えてないと気づいたのはずっとあとだった。
そのことにわたしは長い間気づいてなかった。
それは自分の理屈をすべて完備した道ではあるけれど、(当たり前だけど)誰にも見えないし、誰が評価しようもなかったのだ。
一方で、オトナになってから、人の物語を聞くのが好きになった。
本を読むように「人」という物語を聞いた。
不躾なこともいっぱい聞いた。
そして「見えている風景」のちがいみたいなものにようやく気づいた次第だ。
幸せになれたのは、なにかを自分で作れたことだった。
小さな文章のひとつを自分で書くこと。
意外にも、これが1番自分を孤独から遠ざけた。
そのことが誰にとっても無意味であっても、自分にとっては意味があった。
なによりもこの道を誰かが遮って邪魔することがなかった。
わたしは人に同意を求めずに、自分の大事なものを隠し持つことを覚えた。
だんだん、そういうことが当たり前になってくる。
当たり前になってくる一方で、当たり前すぎて忘れてしまうときもある。
そうして不穏なものがいくつも道を遮る夜になるとわたしは、あの頃の呪文をつぶやくのだ。
「書くことだけが自分を助けてくれるんだ」と。
「ゼロから作り出せる文章だけが、誰を救わずとも、自分の拠り所になれるのだ」と。

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