連作ですが、一話ずつ読めます。
そして今回が最終回です。
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よりママの店に「For Rent」の看板がかかった。
よりママはどこに行ったんだろう? ホスピス? それとももっと遠い場所?
今更なのだがわたしは、よりママの連絡先を知らなかった。
「すごく強い痛み止めがあるんだよ、おかげでこうしてお店の片付けができる」
先週のよりママはストローで炭酸水を飲んでいた。
癌がどんどんカラダを喰っていくんだよ。喰っていくって言われてもわからないだろうし、うまく説明できないけど、とにかく喰ってるだよ。痛いよ、喰われると。
ホスピスの入院待ちだと言った。
「調整がついたら連絡くれるってさ、なんだろうね、調整ってさ。あ、心配してくれなくても大丈夫。こうみえても息子がひとりいるんだよ。今は帰ってきて手伝ってくれてから、後片付けまで全部まかせた」
自分で決めるのが好きだから、なんでもお任せてってのもなんだかなあって思うんだけどね。よりママは短く言った。
「じっと寝て待つのも心細くてさ。だから、調子のいいときは店にいるんだよ。タイミングが合えば、お別れだって言える。そして、言い残したことも、うまくいけば聞いてもらえる」
相変わらず年齢不詳だ。
心持ち痩せた分、シワの刻み具合が深い。保湿が足りないせいだ。
フェイスマッサージでもしてあげれば少しよくなるかもしれない、けれどそれは彼女の望んでいることではないような気がした。
「ミドリちゃん」
息を吐くような小さな声でママがそう言った。
何十年もその呼び方をされてなかった。
思い出した。若い頃のわたしを、よりママはそう呼んでのだ。
「あんたの父親はあんたにひどいことをしてたんだろ?」
背中に冷たいミネラルウォーターがちょろちょろと流れたような気がした。
「昔はもっとえげつない言い方してたんだよ、でも(ママ、いまどきはセイテキギャクタイって言うんだよ)って教えてもらった。まあ、その子もそういう子だったからね。いや、あんたに、そのことについて喋れなんて言わない、聞いたからってわたしには全然関係ない。だからどうでもいいんだけどさ。わたしはそう思ってたって。最後だから、言ってもいいのかなって思ったんだ」
血管を流れる血の音が身体の中でドクンドクン言っているのが自分でもわかった。
わたしはセイテキギャクタイなんて受けた覚えはない。
家族に対する嫌悪感はずっとあるけれど、それは、そういう言葉のものとは違う。
「ごめんよ、違うんだったら違うでいいんだ。それだったら失礼なことを言ってしまったことは謝る。でもね、わたしは鼻がいいから人の匂いは間違えない。たとえば家族の誰かが、あんたのおまんこを見たり指入れたりしていたら、それはセイテキギャクタイなんだって言いたかったんだよ」
父親は大学病院の医師だった。だから我が家には通院するという習慣がなかった。
大きな病気でもすれば違ったのだろうが、ほとんどの場合は父親がなんらかの診断をするのが常だった。
「おとうさん、ミドリが熱が高くて」などと母親が言うと、父親が診察した。
父親は大きな声で怒る人ではなくて、威厳があって、母が父を尊敬していたのか怖がっていたのか、何もかも見なかったことにしていたのか、今はわからない。
わが家では定期的に若い医師を呼んでのホームパーティがあった。そういう医師たちに「ミドリちゃんのお父さんはほんとにすごい人なんだよ」と言われて、わたしの外ヅラは「プリンセスのようなひとり娘」だった。
父は食事のあとに、寝ているわたしの部屋にやってきて、体を触り、胸を触り、性器に指を入れ、中学生になったあたりからそれはもっとおぞましい形になったのだが、わたしはそれを言葉にすることができなかった。「どういう言葉」がそれに当てはまるのか、わたしにはわからなかったのだ。
言葉にならないというのは恐ろしいことだ。
感じていることがわからなくなってしまう。
おとうさんがしていることが、いいことなのか嫌なことなのかもわからない。
わからないから拒否しようにも逃げようもない。
自分の中で「この部分だけがすっぽりと」言葉にならないまま抜け落ちている。
この年になって、今の今まで、わたしは、このことを「言葉」に変換しないままに、ずっと生きてきたのだ。
「ミドリは気管支が弱いから」」というのが父の口癖だった。たしかに季節の変わりめに明け方のぜいめいはあった。それを確認するために父親は定期的に真夜中のわたしのベッドを視察した。
わたしは病院に行ったことのない子供だった。
そして、父が死に、母を見捨て、ひとり暮らしをはじめてから、やっと「世間の病院で行われている診察」とはわたしが思っているものとはまったく違うことに気づいたのだった。
セイテキギャクタイ? 馬鹿にしすぎだ。そんな安っぽい言葉があてはまるようなもののために、わたしはずっとひとりでいたのか?
まるでわたしが、当たり前の不幸に酔いしれるおんなに成り下がったみたいじゃないか。
血のドクドクは止まらなかった。
顔もこわばって、グラスを持ち上げることもできなくなってしまった。
女子大を選んだのは男の人が怖かったからだ。
なのに、こわいのに、わたしのカラダの欲がまた、男の人を求めて。
そして、絶望した。
裏切られるまで、わがままを言い続ける共依存。
よりママは、そんなわたしのことを一番身近に見ていて、そして見て見ぬふりしていた。
「そんな子を何人もみてきたし、自分で話してくれる子もいたよ」よりママがそう言った。
「がんばるって言ったり、いい人みつけたから忘れたいって言ったり、やり直したいって言ったって、なぜかみんなダメになっちまうんだ。アル中になったり病院に入ったり行方不明になったりして、みんなどこかに消えてしまったんだ。
おおきな木の真ん中ががらんどうで、それで、腐って折れてしまうみたいにさ。ぽきんといなくなってしまうんだよ。だから、いつかあんたもそうなるような気がしていた。
けれど、ならなかったよね。なぜだかわからないけれど、あんたはそうならなかった。あんたは生き延びたんだよね。
あんた、今や偉い人なんだろ? 前から美人でスタイルよくて、凄みがあったけれど、今はまた別のものがある。わたしは鼻がいいんだよ。なんていうか、誰にも負けないくらいゴージャスでさ。すごいオーラがある。おんなとして素敵って見られたら、勝ちみたいな、そういう世界にいてさ、あんた、堂々と勝っているんだろ?」
まさにそのとおりだ。
わたしが店長になってから、売り上げがのびた。
世の中は景気も悪くて災害も疫病も続いて大変だったけれど、そんな時でもなぜか利益は増え続けた。
やっかまれたり恨まれたりもあったが、わたしはもう誰とも同じ土俵にはいたくなかった。
ネイルサロンドルチェで、ナコやサトミが、他人と比べずに自分を生きてきたみたいに。
わたしは等しく誰にでも、笑顔と「あなたが、美しく、幸せな人生が送れるように」という気持ちを贈り続けようと思ったのだ。
このお店という世界の中では、どんな呪いの言葉も封印して、自分の最高の微笑みを贈り続けようと。
店長になったときにそう決めたのだ。
「喋りすぎて、疲れてしまったよ」よりママが言った。「レジに薬を入れてるんだ。取ってくれないか?」
言われてレジを開けてみると、からっぽのレジの中に薬の袋だけがおさまっていた。
水はいらない、と言って、よりママは薬の袋をとって口に入れた。
しばらくはそのまま顔をしかめたりしていたが「なかなか効かないね、もうひとつ」と言ったので、また手渡す。
薬を飲んだママは「大魔神!」と小さく叫んで、それから肩を上下させていた呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
「今日はこれで閉店。あしたはわからない。閉店セールだから、お勘定もいらない。迷ったけれど、今日はお店に出れてよかったよ。ミドリちゃん、あんたは生き延びたって言いたかったんだ。ずっとずっと言いたかったんだ。そんな恥ずかしいことは死ぬまぎわじゃないと言えないね。死ぬまぎわだけど、言えてよかったよ」
鍵は心配ないから玄関から出ていっておくれ、というよりママに「元気でね」と言って握手した。
「ホスピス行こうってときに元気でね、はないだろ? でも、祈りの言葉は気持ちいい。祈りってのは、誰かが自分を幸せにしてくれる感じだよ。ミドリちゃん、さあ、ドア閉めておくれ。もう休みたいからさ」
重たい木のドアをゆっくり閉めた。
たぶん、このドアを開けるのも閉めるのもこれで最後なのだろう。
カールアップしたマスカラが崩れてしまうので、今は泣かない。
だけど、家に帰ったら泣くかもしれない。
サトミが毎年送ってくれる年賀状を飾っている、フォトフレームを前にして。
わたしは、今日は泣くのかもしれない。
子供と一緒の家族写真なんて、わたしは嫌がるってわかっているのに、毎年送ってくれる、サトミの年賀状。
それををまとめて飾っているフォトフレームを見ながら。
ウエディングドレスから、赤ん坊の写真から、いつまでも変わらないサトミ夫婦の笑顔を見ながら。
わたしは今日は、大きな声で泣いていいのかもしれない。

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