わたしは、これがどれくらいの効果があるかも想像しておらず「少しでもこのひどいアレルギーが軽くなれば」と治療を開始しました。
そして今年になってやっと終了、これがその記録です。
なおこれは、多くの人に「ぜったいやった方がいいよ」と勧めるものではありません。
あくまで身体の変化の記録であります。
* * *
舌下免疫療法、最初に始めた頃の記録を読み返してみると、とちゅうで薬を中断したり、喘息の治療エアゾールを毎日服用したりと、けっこういろんなことがあった。
でも、その当時のわたしは「いつもアレルギーに悩まされて、すぐに喘息を起こすのは普通だった」ので、「薬を飲んでるから」ではなく、ただ、いつもの日常を過ごしているだけのことだったように思う。
結局わたしは4年間、舌下免疫療法で「ミティキュア」を飲み続けたことになる。
3年半がたった2023年の12月くらいから抗アレルギー剤を減らしていった。
「ピラノア」を最初は3日に2回にしたり、2日に1回にしたり。
けっこう長い時期をかけて減薬した。
一番長かったのが4日に1回の期間である。
4日目になると、なんか体がむず痒くなったりして、それで我慢できずに薬を飲む。
そういう時期が長かった。
ピラノアからレポセチリジンに変更した。
「痒くなるんだよね? じゃあ、かゆみに効いて即効性のあるものにしよう」と先生。
それでも4日に1回が1週間に1回になっただけで、完全に薬をやめることはできなかった。
当たり前だと思う。
わたしは子供の頃はアトピーで、それから20代で喘息を発症して、その後「花粉症」という名前が市民権を得たあたりにはもう、欠かさず抗アレルギー剤を飲んでいたのだ。
アレグラは身体の一部、ピラノアも耳たぶのピアスと同じくらい自分に近しい場所にあった。
「これをなくすのは無理! せめて、飲まなくてよいオフシーズンがほしい」
と思っているくらいに、一年中飲んでいたのです。
「呼気NO検査の数値」が改善したことも大きかった。
息をふーっと吹くことで一酸化窒素の値を見る検査である。
症状が軽減してから20ppb以下のことが多くなり、16~18ppbだと看護師さんが「おーっ」と驚いて喜んでくれた。先生ももちろん喜んだ。
「先生、最初ってこれ、どのくらいでしたっけ?」とカルテを遡ってもらったら、98とかあった。立派な喘息である。
「もう、トクシツ外れるから」
と先生。
「喘息の特定疾患療養管理料というものがあり、もう喘息の療養管理の必要がないので、管理料がなくなる」ということらしい。
でも、そういう状態でも、エアゾールのメプチンはいつも枕元にあった。
病気も薬も「わたしの成り立ちを構成する大事なもの」だと思っていた。
喘息の発作は息が苦しいから怖い。メプチンは命綱だった。
そういったものを先生は「もうやめていいよ。起こりそうな気がするのは、気のせいだから」と毎回も言った。
口の悪い先生で「気のせい、思い込み」と毎回言われるので、ちょっと気分悪かったが、だんだん「そうかもしれない」と思うようになった。
先生は顔面麻痺があり、笑うと口がゆがむ。大病院の救急にいたときにストレスでそうなったらしい。あと、酔っ払って頭から地面に突っ込んだような生傷もあって、この傷はいつまでたっても治らなかったし。
だんだんと無駄口を叩く関係にはなったものの「すべてを信じて受け入れる」にはだいぶん時間がかかった。
「もういいでしょう。2ヶ月分ミティキュア出しておくから。これ終わって、まだ不安なら来て。薬が必要なときも来て。でも、なにもなかったらそのまま止めてしまって」
2024年4月にそう言われた。
6月のはじめに薬は切れたけれど、その頃は依存することもなく「薬の量が減って嬉しい!」と思うようになれていた。
7月も終わりに近づいた。
あれ以来、ミティキュアも辞めたままだし。
抗アレルギー剤もまったく飲んでいない。
不思議なものだ。
あれだけわたしの身体の構成要因だと思ってたのに。
抗アレルギー剤なしに生きていけるわたしになってしまった。
「あなたはわたしの傑作作品。すごい成功例」と先生は言ってくれたけれど。
そういうわけで2ヶ月たってそのまま辞めたので、お礼にも言っていない。
この場をお借りして、A先生には改めてお礼を申し上げたいし。
「服薬しながらも長いこと信じていなくてごめんなさい」
とも申し上げたいです。
