2024年09月22日

100回は読みたい佐藤正午作品について

 岩波書店より、過去のエッセイ集が3巻連続で発売された。
 読むことで、昔の作品のことを思い出したり、かなり心が掻き乱れている。過去と現在が交錯し、頭の中がとても忙しい。

つまらないものですが。 エッセイ・コレクションV──1996−2015 (岩波現代文庫 文芸362) - 佐藤 正午
つまらないものですが。 エッセイ・コレクションV──1996−2015 (岩波現代文庫 文芸362) - 佐藤 正午

佐世保で考えたこと エッセイ・コレクションU 1991−1995 (岩波現代文庫 文芸361) - 佐藤 正午
佐世保で考えたこと エッセイ・コレクションU 1991−1995 (岩波現代文庫 文芸361) - 佐藤 正午

かなりいいかげんな略歴 エッセイ・コレクションT──1984−1990 (岩波現代文庫 文芸360) - 佐藤 正午
かなりいいかげんな略歴 エッセイ・コレクションT──1984−1990 (岩波現代文庫 文芸360) - 佐藤 正午

 「つまらないものですが」は、電子版になるのも待ちきれずに紙の本を買ってしまったものだから、パラパラめくっているうちに、なつかしい文章と出会いドッグイヤーだらけになってしまった。

 読みたかったのは盛田隆二氏の「夜の果てまで」の文庫版の解説現実➖盛田隆二『夜の果てまで』だ。
 待ち合わせのドーナツ屋で「マリ・クレール」に掲載されていた小説を読んでいた女性は、遅れて男性がやってきても小説を止めることができない。そうして結局二人でその小説を読む、という話なのだが、その雰囲気、雑誌の読み方、最後の小説のしまい方、ため息のつき方まですべての描写が映画のように美しく流れていてカッコいい。
 ちなみに「マリ・クレール」に掲載されていたのは「夜の果てまで」の元となった短編、「舞い降りて重なる木の葉」である。
 それから「舞い降りて重なる木の葉」が家にあるはずなので探した。
 「マリ・クレール」掲載の短編のコピー。友人が某所でこの雑誌を見つけ、コピーして送ってくれたものだった。
  のちほど検索して、盛田隆二氏の「きみがつらいのはまだあきらめてないから」という本に載っていることがわかった。あとでそちらを読んでみればいい。



 それにしても。この「夜はての解説」は、これだけで100回読める。
 「佐藤正午100回読めるリスト」に本日追加しました。


 昔から20回も30回も読んだ佐藤正午の短編がいくつかあった。
 この機会に読み返したくなり、書棚に向かっていろんなものを引っ張り出した。
 読みたい本の埃を払い、読みたい箇所を探し出した。
 今日はこれをやっていた1日。
 ええ、幸せでした。

 ちなみに今日読み返したものはこういう作品でした。

1.「水曜日の愛人」・・・携帯メール小説として小学館の「きらら」に連載されていた。月曜日の愛人から順番に話はあるのだけど、水曜日の愛人がわたしは一番好き。これは「佐藤正午教本」である「正午派」(小学館)に掲載されている。さっき読み返した。超超短編。

2.「愛の力を敬え」・・・NHKのドラマでも好評だった「身の上話」の元ネタになった短編。「人の物語」というアンソロジーに掲載されていて、これもやっと見つけ出し、さっき読み返した。おろかで可愛らしく強い女性の主人公がとても好き!
 どこかに再掲されていたはずなのだが、と、またネットをうろうろ。
「ダンスホール」の文庫版に再掲されていることがわかった。

3.「鳩の撃退法」(これは読み返していません)・・・難解で不思議な世界で時系列が複雑で、読み返すたびに驚きがある。連載を含めて5回は読んでいるけれど、また時間がぽかんとあいたら読みたい。これ、上下巻なので長いです。

 読み返してみると「今のわたしの中身をカタチ作っているもの」はかなりの確率で佐藤正午の小説の中にあったもののように思う。
 軽やかさも、思い切りのよさも、それに伴う愚かさも。

 本を読んでいる最中の感触は、降り積もっては溶けていく雪のようで、見えているようで見えていない。なのに、知らないうちにわたしの中にうっすらと積み重なっている。
 
 ええ。なんか、今日は意味もなく興奮しています。
 本ってほんとにすごいです!


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posted by noyuki at 20:21| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 佐藤正午系 盛田隆二系 話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年09月15日

「40歳になって考えた父親が40歳だったときのこと」吉田貴司




 2024年7月発売のコミックスです。
 ツイッター漫画だったものを「小説幻冬」での連載となり、そして単行本化。
 noteなどで断片を読んだりはしていましたが、実際に通して読んでみると、ふっと立ち止まって考えさせられるページがいくつもあり、そのつど手を止める作品でした。

 主人公は現在40歳の男性。当時40歳だった父親と同じ年代になり、同じくらいの年の子供もいます。

 父親はタクシーの運転手をしており、バブル以降はなかなか売り上げが伸びず、家に帰っては母親を殴る日ばかり。
 母親は父親が帰る深夜から新聞配達などをしてお金を稼いでいる。
 昔の日本がそうであったように、この家庭もまた貧乏でお金もなく、借金の取り立ても当然のようにありました。

 その「貧乏」の描写が秀逸です。

 >当時ドラマや今度で「貧乏」が表現される時 
 >子沢山の家で母親一人が内職をしているような描写がとても多かった
 >晩ご飯はめざしとたくあんだけどか

 >でも本当の「貧乏」ってそういうことではないのだ
 >うちの電気は24時間つけっぱなしだった
 >風呂はいつもなみなみとお湯が張ってあったし
 >八方美人な母は読まない新聞を3紙くらいとっていた

 >やりくりする術を持たない人を貧乏というのだろう

 これにはガツンときました。
 それと同時に、貧乏で父親も母親のこともきらいという自分を、作者がその年齢になって振り返る、俯瞰した距離感がなんとも絶妙です。

 父親は結局連載中になくなってしまう。
 
 そこにまつわる感情も「嘘が混じらぬように精密に」自分の気持ちが描かれています。
 なくなったことに対する自分の感情。思ったこと、不満だったこと。
 そこから辿り着いてゆく自分なりの死生感。

 吉田貴司さんの作品は「心理状態の描写が細やかな漫画」が多いです。
 「やれたかも委員会」もまた、その心理状態に「こういう気持ちに至るものなのか!」という驚きがたくさん隠されています。

 そして「40歳になって考えた父親が40歳だったときのこと」も、また然り。
 わたしも若い頃の母親の短気でキレやすいところを受け継ぎ、DNAを引き継いだり、否定しながら、自分という毎日を生きています。
 わたしの子供もまた同じように思うのかもしれません。

 親子という血のつながりは最初からあるけれど、わたしたちは繋がりながらも断ち切ったり、否定したり、たまに肯定しながら生きている。
 世代というのは、繋がっているようで繋がっていない。繋がっていないようでどこか繋がっている。

 それが淡々とゆったりと描かれた、いろんなことが感じられる作品だと思いました。



(おまけ)以前noteのご縁で吉田貴司さんのインタビューをしたことがあります。
メールのやりとりでのインタビューでしたが、とても楽しいやりとりでした。
こちらもご一読ください。

 「やれたかも委員会」でおなじみの吉田貴司さんに、「新刊発売記念!インタビュー」を敢行しました! ここを押して



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posted by noyuki at 17:41| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする