2014年07月06日

ひとり浜辺に打ち上げられて


ラブya!


書くことがなかったり、感じることが平坦だったり、何も溢れてこなかったり、そういうことがすごく怖くなったりもする。
それが今のあたしだ。

たとえば、切ないって言葉を咀嚼しすぎると、切なさは味を失うんだろうか?
たぶん、そういうことじゃないんだと思う。

胸の奥のマグマに触れることができないんだ。
何も溢れてこなくって。
そこに静かにあるだけで。

そこはもう、誰にも触れない場所になってしまっている。
自分なのに触れられないもどかしさ。

「気がついたら、ひとりで知らない浜辺に佇んでいたような気分なんだよ」
おんな友達がそう言った。
たぶん似た感じなんだろうと思う。

いろんな人と繋がっていろんなセカイに影響を受けながら生きているから。
他者なしの自分はあり得ない。
ここ数年は、そういうことばかり考えていた。

だけど、そればかりじゃ生きられないことにもそろそろ気づいている。

胸の奥にあるマグマに届かないんだ。
そこを何度もこの手で触っては持て余していたし。
誰かに触られると、奇跡にように溶岩が流れ出た。

でも、そうだったのは、もう遠い昔のことみたいだよね。

恋とか、憎しみとか、喜びとか、怒りとか、みんな自然に泉のように溢れていて、蓋をするすべさえわからなかった。
そんなふうに当たり前のように触れていたものに、いつのまにか触れなくなったしまったんだよ。
胸の奥底にまだあるのは知っているのに。
遠すぎて、誰にも届かず、届かない分だけ、ひとりぼっちになっていった。

もう自然な放熱をしなくなったわたしたちは、おのおのひとりで佇んでいる。

「のゆきちゃんはわたしより若いし。これからもっとそういうのを感じていくんだと思うよ」
前述のおんな友達がそう言った。

そうかもしれないね。
これから、もっと何も流れ出さない、別の人生が待ってるんだろう。

だけど、流れだそうと、胸の奥にただじっととどまっていようと。
それはいつだってやっかいなものだ。
やっかいさの質が変わってゆくだけで。
わたしはまだ、繋がることで解消されない、自分にも届かない自分を静かに愛している。

そして、それと同時に、誰かわたしをこじ開けてと、もうひとりの私は都合よくも待ち続けてるんだ。

わたしを開けて!


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posted by noyuki at 19:32| 福岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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