感覚を言語化できるようになったのはずいぶん大人になってからだが、その感覚自体はずいぶん幼い頃からあったように思う。
連れてってもらった映画館で怪獣映画をみているときには、外でなにか災害が起きているような気がして気もそぞろだったし。
海水浴に行っても、帰りの電車が気になって楽しめなかったし。
キャンプに行っても自然のなにが楽しいのかわたしにはわからなかった。
もうずっと前から。現実世界にきちんと足を踏みしめていることができないのだ。
わたしは、自分がいなくなったあとも永遠に続く時間の果てしなさとか、どこまで行っても切れることのない宇宙の距離にうちのめされて。
ただただ、今自分のいる場所がどこなのかわからなくてすごく怖かった。
その頃はうまく言えなかったけれど、それがすべての不安感のもとだったように思う。
なにかに熱中できる感覚はずっとなかった。学問も友人も音楽も、ましてやスポーツも、わたしを現実に繋ぎ止めることができなかった。
なにものにも繋がれずにこの場所にいるものだから、わたしはいつも不機嫌だった。
すこしずつ、それも大人になってから、本や漫画を読んで、他人の感情を真似してみるようなった。
気の合う友人を作ったり、おいしいものを一緒に食べたたり、まるで幼児がひとつひとつの感覚を獲得するように覚えていったような気がする。
それを獲得できて本当によかったと心底思っている。
それでも、わたしの座標のわからなさに対する不安感はあいかわらずだし、いまだに「そちらの感覚」の方に自分が堕ちていくのがよくわかる。
それは、なにかに熱中したからといって消えるものでもない。
隙間を埋めるように仕事に熱中したって、携帯ゲームも編み物も延々と見続けていられるInstagramでさえも、わたしを現実世界に繋ぎ止めてくれないことはよくわかっている。
バスに乗って窓の外を眺めながら、「あ、また少し地面の下に堕ちているんだな」とか思う自分もいる。
それは、さみしさとかストレスとかでもなんでもない。
わたしはふつうに立っていたら、少しずつ堕ちていく人間なのだ。
そうとしか言い様がない。
そして、このからだと長年つきあってきて、それを回避することができるものがひとつだけあることにも気づいている。
書き続けることだ。
言葉にならない感覚を言語化すること。
見知らぬ主人公を仕立て上げ、自分のよんどころのない感情を喋ってもらうこと。
ただただ日々の夕焼けの色や空の雲を比喩してみること。
わたしの頭のなかにある、言葉になるまえのスライムのような感情
を取り出して、そのひとつひとつに時間をかけて言葉を与えてゆくこと。
それだけがなぜか。
わたしが、わたしを離れて堕ちていかないようにするための方法だと思っている。

