2016年12月13日

ミドリの森 8 ナコ4

晴れた日の午後。暑くもなく寒くもなく風もおだやかで、秋の空はかぎりなく広い。
そこに1本の白い煙が、迷いもなくすっと天を目指して登っていった。
別れはそれなりの空洞を残したけれど、精一杯手を振って見送りたくなるような清々しさがあった。
わたしは今、母が焼かれて天に上っていくのを見送っている。

日曜日の午後の一件から、平日が終わる金曜日までの休みを店長のミドリさんが手配してくれた。
「本店から応援を頼むこともできるから、ゆっくりといろんなことを片付けて」と言う。
大嫌いなミドリさんだが、仕事になると、その対応に感謝するほかない。表向きだけだとしても、彼女は仕事でだけは信頼できる。

ひとりで芝生に出て、もう一度火葬場の控え室に戻ると、民生委員の田中さんが来ていた。
彼女は思い出話をしたがった。そうすることが母への供養だとでも言うように。わたしたちの中学時代のことを話した。
「あなたが学校を出るまでは、ってすごくがんばってらっしゃったわよね。いっしょに居酒屋に行ったこともある。話も少し聞いたわ。前のダンナさんの暴力から逃げたこととか、それからのこととか。パート先のスーパーでもよく会ってたから。体調を崩して休みがちになってからも、時々行ってたの。民生委員としてじゃない。近所の友人だとずっと思ってたわ」
それから彼女は娘のミホコの話もした。
「ミホコはよくあなたのことを話してた。美術部でもとても素敵な絵を描いてて叶わないといつも言ってた」と。
ミホコは美術系の大学を出て、市内の印刷会社にいるという。
叶わないのはわたしの方だ。大学で絵を学ぶなんて思いつきもしなかった。早く家を出たかったわたしには、そんな道は目の前に見えてなかった。
素直にわたしの絵を褒めていたミホコ。あれはお世辞でもなかったんだな。それを聞くと悪い気はしなかった。
もっとも田中さんさんは、ミホコの自慢をしたかっただけなんだろうけど。

「ねえ。親子なのに。どうして気にかけてあげなかったの?ただひとりの家族なのに。彼女はあなたの携帯番号すらも知らなかったのよ」

(当たり前だ。知られたくなくって番号変えたんだから)

「嫌いでも仲が悪くても血は繋がってるの。みんな、お腹を痛めて、死ぬほど苦しんで産むの。本気で嫌いになんてなれるはずないじゃない。ねえ、そう思わない?」
田中さんはいつのまにか缶ビールを飲んでいた。
母と同じ種族なのか、それともお酒の力を借りなければ言えないとでも思っているのか?
「わたしも悔しい。もっと早く気付いてあげればこんなことにならなかったのに。でも、あなただって悪いわ。家族のあなたは、もっとちゃんと助けてあげなくちゃいけなかったのよ。母娘なんだもの」

(この人は何を言ってるんだろうか? 誰かが母を助けられると思ってたんだろうか? そんなことありえないし。そもそも、助けてあげられるのは、わたしじゃないはずだ)

ドアの向こうから黒いワンピースの女性がやってきた。
髪をアップにしたミドリさんだ。

まるで外国映画に出てくるようなシックないでたち。ケバくなく、ハッと息をのむような、美しさを放っている。
「奈津子さんの職場の者です。このたびは大変なご足労をおかけいたしました」
そう言って、ミドリさんは斜め90度近くまでキチンと腰を折り曲げた。会社の研修で習ったとおりの(一番ていねいなお辞儀)だ。
「私共の配慮が行き届かず、奈津子さんに頼るばかり申し訳ございませんでした。そのせいで田中さまにも多大なるご負担をかけてしまいました。大変感謝しております」
芝居がかっている。でも、先手を打つには十分だった。
「奈津子さんには金曜日までお休みを取ってもらってます。ですが、私どもも、少ない人数で切りもりしているものですから、少しばかり奈津子さんから引き継ぎの話を聞かなければいけません。大変申し訳ないのですが、この時間にちょっと奈津子さんをお借りしてよろしいでしょうか?」

相手に有無を言わせない。そういう完璧な強さだった。
田中さんがたじろいでモゴモゴ言ってるあいだに、それではちょっと失礼します、そう言ってわたしを庭に連れ出した。

外に出ると同時にミドリさんはタバコに火をつけた。
「あんな、ちっぽけな正義に付き合うことなんてないのよ」
ミドリさんの顔に静かな炎。
「嫌いな親だっている。助けあってなんていられない。離れていなきゃ自分を守れない。できれば一生会わずに過ごしたい。そんな親子だっているのよ。面倒みたり、苦労して介護したり、そんな話ばっかで、反吐が出ちゃう。もちろんそういう人だってすごく頑張ってるんだろうけど。それはできる人がすればいいのよ。押し付けないでって思うの。嫌なら逃げればいい。ほんと、それだけのことだってわたしは今でも思ってる」

短くなった煙草をベンチの脇の灰皿に押し付け、ミドリさんは立て続けにもう一本タバコをつけた。
「父親とは一生会わないつもりだったから、死んだって聞いて心底ほっとしたわ。これで縁が切れるってね。でもね、死んでしまったあとにも、わたしはずっと、あの男の呪縛に囚われるているの。あなたはそんなふうにならないで。おかあさんのこと嫌いだったんでしょう? 民生委員の話を聞いてるあなたは心底嫌そうな顔してたもの。だったら、すっぱり忘れて生きなさい。わたしみたいに、親の毒が身体中にまわってしまわないように」

(苦しくないんですか?)
 などとはとても聞けなかった。
だらしなくてとんでもなくて嫌なヤツであるミドリさんが、どこでもがいているかが一瞬のうちにわかってしまったからだ。

さあ、きちんとお別れしてきなさい。
もう、誰も、あなたの足首を掴んでこないように。

ミドリさんが短くなったタバコを消した。

目を瞑り。ぐっと力を込めて背筋をのばす。
誰かの不幸が、もう2度と、わたしの足首を掴みにこないように。

わたしは骨だけになった母の元へと戻った。



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2015年09月09日

「ミドリの森」6 ミドリ  「ウソツキドリ」

「ウソツキドリがさ、いつのまにか、ここからいなくなったんだよね」
よりママが自分の胸に指をあててそう言った。指のあいだからタバコの煙がふわっとひとすじ昇っていく。

ミドリ以外の客はいない。カウンター席もたったふたつのボックス席も空っぽだ。
仕事の帰りに滝のような夕立が降ってきて、折り畳み傘では肩もくるぶしもずぶ濡れになった。それでこの古びた店に飛び込んだのだ。

よりママは痩せぎすで、きついパーマの髪は明るい。皺だらけの顔なのにつけまつげだけが異常に元気だ。もう何十年この店を続けてるんだろうか?
順番にカラオケを入れて、記憶にもないような古い曲を歌う常連客も今日はいない。
新しいボトルを開けて、口数も少なくウィスキーを飲む店内には、外から聞こえる滝雨の音しか聞こえなかった。

「ウソツキドリ?」
「そう、ウソツキドリ。今思うと、あれはウソツキドリだったわ。いたときは、なんにも気付かなかったけどさ」
「勝手に、よりママに嘘をつかせてたってこと?」

よりママは、深く煙を吐いた。

「まあ、そういう感じかな?」
いや、ちょっとちがうかな?  そう言いながら、勝手にウィスキーを足して、大きな氷をぽんといれる。
氷は大きすぎて、グラスがなみなみになる。まあ、いいか。これくらいだと薄くならない。

「ウソツキドリがずっとわたしと男を喰いちらかしてたのよ。気づかないうちにね」

こんな男とやる気なんてない、って思っててもさ、気がついたらやっちゃってんだよね。
誰でもよかったわけじゃなくって、でも、雷に打たれたみたいになってさ、電気が走ってどくどくするの。
だからわたしは、人を好きになるときって電気が走るもんだって思ってた。
こころって頭じゃないんだ。こころはこころで勝手なことするもんだって本気で思ってたの。
でもそうじゃなかった。

今になってわかるわ。
あれはウソツキドリの仕業よ。

きっと、いろんな見えないところを喰いちらかしてたんだろうね。
ちょっとした隙に、なんかどうしようもなくなって、悲しくなったりするの。ほんとに好きかどうかわかないんだけど、もっとわたしを見てほしくってズキズキしたり、もう、いてもたってもいられないくらいになって、なんで閉店まぎわに帰っちゃうの?  最後までわたしといてくれないのは誰かのところに行くから? ってふつふつ腹がたったりしてさ。帰るってのを、鍵閉めて押し倒したこともあった。結局待ちくたびれた女がやってきて、ドアバンバン蹴たくって、それどころじゃなくなったんだけどね。
伝票だって、ずいぶん書き換えたのよ。今考えると笑っちゃうけど、きらいな男の伝票に好きな男の飲んだ分をつけていったりするのよ。
でも、そんなことしたって一緒、ウソツキドリは勝手に飽きて、勝手にどこか行っちゃうの。

ある日、羽振りのいい男が、単なる見栄っ張りの浪費家に見えたりするの。
横顔のきれいさに惚れたはずなのに、なんだろ、このナルシストって思ったりしてさ。
すーっと、冷静になると、みんなつまんない男で。
もうどうでもよくなっちゃうの。自分でもびっくり。
ウソツキドリがいなくなると、なんの感慨もわかないのね。
なんであんなに好きだったのに、こんなに見下してしまうんだろう? あの気持はどこに行ってしまったんだろうって、もうさ、愕然よ。

そのうち、ウソツキドリはわたしのところにはもう戻ってこなくなってしまった。
いなくなったら、よくわかる。
さみしいもんよ。
もう、あんなに怒ったり悲しんだりしなくていいんだもん。
ほら、ここに来る人たちってさ、みんな大昔の恋の歌を歌うじゃない。
あんなの聞いたってさ、ああ、この歌作った人たち、みんなウソツキドリにやられてたんだね、とか思ってしまうだけなの。
平和っていえば平和なんだけど。
なんか、毎日が平べったい感じになっちゃったのよ。

ミドリはロックを飲み干した。ほとんど溶けていない大きな氷だけがグラスに残った。
「ちょっと待って」って、よりママは洗い場に入っていく。
「干し魚を焼いてあげる。ウソツキドリの好物よ」
台所から声が聞こえた。

ミドリはもう一度LINEを見る。
既読がついてるのに返信はない。
「雨がひどくて、ひとりじゃ帰れない。迎えにきて」
もう一度メッセをいれる。
今度は既読はつかない、いつまでたっても既読がない。

ボックス席に移動して電話を入れた。
15回まで数えた。

「明日は早いんだ。もう、寝てたよ」
男の声がそう言った。
「もう、飲み過ぎて歩けない。ねえ迎えにきてよ」
今度は沈黙。

そして男は電話を切る。
だけどミドリは知っている。
断れない男なのだ。

「迎えにこないと、隣にいる男とやっちゃうよ」

LINEにそう入れる。
既読はすぐにつく。
男はベッドから起き上がり、服を着替えて、車を出すだろう。
わたしがゆっくりと薄手のコートをはおる間に、男が支払いを済ませてくれるはずだ。

家にあげて、抱きついてしまえばいい。
でも、その頃には、記憶の一番奥にある、誰にも言えない嫌悪感がわきあがってきて、またわたしはセックスを拒んでしまうのかもしれない。

ウソツキドリはずっとわたしの中にいるんだろうか?

目をつむると、そこには暗い沼があった。
泥沼だ。
わたしの足はいつも膝まで泥沼につかったまんま。だからまっすぐに歩けない。
そしてウソツキドリも男も、みんな泥沼に足を救われて身動きが取れなくなってしまうんだ、きっと。

何日か前、ミドリの仕事場のロッカーに「うそつき」と書いてあった。
ひきずるような血の文字にゾッとした。
消去法で考えれば、それが誰の仕業かなんてすぐわかる。

そしてゾッとするような血文字のカラクリも思いの外かんたんにわかった。
使用済みの生理用ナプキンがロッカーの前に転がっていた。

ねえ。人を恨んだりできるのはけっこうまっすぐなことなのかもしれないね。
恨まれたって、わたしが傷つかない。
誰かの恨みや怒りまで、わたしは引き受けられないもの。

もっともっとこわいのは自分だ。
どこまで壊れていけば、生きるのをやめられるんだろうか?
そう思いながらわたしは今も生きているんだよ。

よりママが干し魚を焼いてもってきてくれた。
つまんで口に入れられるくらいの小さな干し魚だ。

その魚に手をつけようとしたら、ドアが開いて、傘を折りたたみながら男がようやくやってきた。
「なんだかいい匂いだね」
そう言って男はにこやかに笑った。


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posted by noyuki at 21:25| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ミドリの森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月20日

「ミドリの森」5 サトミ 2

わたしは、何を与えられて、何を与えられなかったのだろうか?
ときどきそのことについて考える。

 ミドリさんは話術の天才だ。すてきな話し言葉でお客さまをいい気分にさせてくれる。
奈津子さんはアートの天才。ちょっとした大胆なデザインで人を魅了する。
ふたりとも「ネイルサロンドルチェ」にはなくてはならない人たちだ。

だけどわたしはどうだろう?
そのどちらの技術があるとも思えない。いつも失敗しないようにドキドキしてる。
顔は地味だし、おしゃべりもできないから、いつまでたっても存在感がない。
あからさまに不満を言う人こそいないけれど、満足度は一番低いんじゃないかと思う。
「まだまだ若いんだから、ていねいに仕事することだけを心掛ければいいのよ」とミドリ先輩は言うけれど。彼女の本音はいつも深い森の中だ。

中学までは勉强だけはできた。そして高校は進学校に入ったのに、ついてゆくのもおぼつかなくなってしまった。
環境は残酷だ。だんだん疎外されていくようで、誰とも口を聞けなくなってしまった。両親は、せめて辞めないで卒業してくれればいいと願った。
卒業できる出席日数を計算しながら、仮病を使ったり、学校で石のように座ったままだったりを繰り返すのは苦行だったけれど、転校や退学は、もっと気の遠くなるような労力を必要としている気がした。
同級生たちはほとんど県外か近くの都市の大学に行った。わたしは冬にひどい気管支炎を起こして受験もままならなかった。もっとも、気管支炎でなくったって、行けるところなんてなかっただろう。
両親は、それでいいじゃない、専門学校にでも行って、近くで働ける技術があればそれで十分だわ、と言った。
巣立ちのできないひなのままでいて欲しいのだ。両親の中ではわたしはまだ、社会にうまく適応できなくて取り残された娘で、わたしはずっとそれに甘んじている。
高校を卒業したとたん頭の中がクリアになって、それなりに友だちもできたけれど、それでもわたしには、仕事の帰りにいっしょにお茶を飲む友だちなんて誰ひとりいないのだ。

わたしは二人に比べていろんなものを持っていない。
そのことがときどきイヤになってしまう。
「家に帰ればごはんができてるなんて羨ましい」って奈津子さんは言うけれど、ごはんと家族以外に何もない人生を、奈津子さんには想像できるだろうか?

お客様の途切れた昼下がり、そんなことを考えていると、奈津子さんの彼がお店の前を通った。180センチ以上のスーツ姿の端正な顔だちが、ちらりと中を覗いて会釈した。歯磨きのコマーシャルに出てくるようなきれいな白い歯。
今日は奈津子さんは非番でいない。平日にミドリ先輩とわたしがいるってことは、奈津子さんは休みなのだ。
すぐにそのことに気づいたらしく、そのまま彼はだだっ広いフードコートの方に歩いていった。

しばらくしてから、ミドリ先輩が席を立つ。
「ちょうど人も途切れたし、早いけれど食事してくるわ。ああ、おなかすいちゃった」
そう言って、お財布だけ持ってそそくさと店を出ていった。

そのときふいに、最近ミドリ先輩と奈津子さんの会話がないことにあたりがついた。

備品を揃えるふりして少し顔を出してみると、テーブルに座っている彼に挨拶しながら、「SUBWAY」のトレイを持って隣に座るミドリ先輩が遠くに見えた。
静かに凛とした佇まいの、いつものミドリ先輩はそこにはいない。
獲物を狙うカメレオン。静かに巻きつく白い蛇。彼の二の腕に漆黒のネイルアートの指が魔女のように突き刺して、ケラケラと笑っている。
嫌悪感のかけらもなく彼もまた笑っている。
そうか。彼はもう、たぶん、ずっと前から巻きつかれてしまっていたのだ。

最近ミドリ先輩と奈津子さんははよそよそしい。
奈津子さんが遅番の日に備品の片付けができてないって、ミドリ先輩はわたしにこぼすのに、本人には何も言わない。
土日に全員出勤したって、なんとなく会話が弾まない。

わたしの知らないところで何かが起こってるのだ。

そうしてわたしは「ごはんと家族以外のなにか」に飢えてるわたしが、ひそかに心踊らせていることに気づいてしまう。


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posted by noyuki at 14:07| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ミドリの森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月21日

「ミドリの森」4 ナコ2

「あなたのパートナーは、正直、おすすめできない方だとわたしは思います」

婦人科の年配の女医は、わたしの顔を見ながらそう言った。

「あなたが感じている違和感は、性行為感染症によるものです。薬を処方しますのできちんと飲んでください。この病気は男性は媒体となるだけで発症しません。つまり、どこかの女性の病気が、あなたのパートナーを経由してあなたに来たというわけです。彼にきちんとそのことを話して、病院へ行くことを勧めてください。言いにくいとは思うけど」

年配の女医はファウンデーションとまゆずみだけの化粧で、のっぺりした顔だった。地味だけど髪にはお金をかけている。ゆるやかなパーマで、根元まできれいな栗毛色。そして肌には健康的なツヤがあった。 わたしを責めていないやさしい目だと思った。多分、こういう場面に馴れている目。
だけども、わたしは目をそらす。

「わたしの所に連れてくればいい。どちらも完治しなきゃだめなの」
わたしはうなずいて診察室を出た。

教えてなんかやらない。

ナコと呼んでくれる人をなくすのは悲しかったけれど。
こうしてひとりで病院まで出向いた自分が惨めで、それは、あの人がすべて蒔いた種なのだと思うととても腹立たしかった。
一方で嫉妬というむつかしい感情をわたしは処理できなかった。許すとか許さないとかもわからないし、第一、ほかの女の人ともセックスしてるのが、生理的に嫌なのか嫌じゃないのかさえ判断つかなかったのだ。
あの人がほかの人とセックスするのはどうなのだろう?
結婚してるわけじゃないから、それでもいいはずなのに、それを想像するととても気持ち悪かった。汚らしい感じがした。
これが嫉妬というものなのかもしれない。
でも、汚らしいと思うのは嫉妬とは違うような気もする。
どっちでもいい。
考えているうちに、もう男と会うのはやめようと思った。

スターバックスの一番奥の席で、わたしは男の携帯電話の番号をブロックしてから削除した。

浮気の相手が誰だか心当たりもつかない。
たまたま誰かと一夜限りの間違いだったのかもしれない。
でも、その一夜を許してしまえば、ずっと苦しい夜が続く気がした。

好きならばちょっとくらいの不都合を許してもいいというのは、間違った道の岐路に立つようなものだ。ひとつのことを許すとどんどん違う道に迷い込む。とちゅうで気づいても引き返せない。
わたしはそのことを母親からイヤになるくらいに学んでいた。
間違った道の岐路に立ったときは、最初の一歩を絶対に踏み出してはいけないのだ。

私はそれをやらない。

母と同じ失敗はしない。

なのに 自分から別れるというのはすごく心もとないものだった。

別れを切り出されるときは、何も決断しなくていい、ただ受け入れて泣けばいい。

だけど、自分で決めるときは、ほんとうにこれでいいいのかと何度も思い返して悩む。

いつもそうだ。

自分で決めたことが自分にとって一番正しいと思うことすら学べないままに、私は大人になってしまっていたのだ。


””””””’’’

そのあとに男がどういう行動に出たか、私は知らない。

ネイルサロンはショッピングモールの2階にあるので、そこに男が来るのではないかと思い、1週間も仕事を休んでしまったからだ。

ここに来て私がいなければ彼はあきらめる。着拒とこれですべてを彼は理解する。深追いはしない。そういう確信が私にはなぜかあった。

店長のミドリさんはよほど仕事が好きなのか、帰ってもやることないのか、少々無理なスケジュールでもこなしてくれる。風邪をこじらせてと言ったら、ちゃんと治るまでゆっくり休んでいいと言ってくれた。

そして同僚のサトミには、なぜか、妊娠したかもしれない、と嘘をついてしまった。
サトミの家と通院する婦人科が近くて 、道端で会ったときの言い訳にしたかったからだ。あとは、間違いだったとか、適当なことを言えばいい。

幼い頃からの作り話が得意だった。この程度の嘘はなんでもない。
作り話はいつだって私を守ってくれた。私の思い出したくないものから、いつも私を遮断してくれた。

なのに、婦人科でばったりと出くわしたのは、なぜかミドリ先輩の方だった。

受付にいる見慣れた後ろ姿に気づき、とっさにトイレ角に隠れてしまう。この時間だと、遅番の出勤前に立ち寄ったのだろう。

ちょうど会計を済ませているところだった。「とちゅうで辞めずにきちんと最後まで服用してください」と言いながら処方箋が手渡されているところだった。

私が処方箋を渡されたときに言われたのとまったく同じ文言。

ただ、それだけ、ただ、それだけなのに。
記憶のレコーダーが勝手にぐるぐると逆回転してしまう。

彼が「お店が終わったら食事に行こう」とネイルサロンに立ち寄ったときの、ミドリ先輩の愛想のいい笑顔。
その次に彼が店の前を通ったときに、ミドリ先輩が先に気づいて教えてくれたこと。
また、その次に彼が立ち寄ったときの、ふくみ笑いのような笑顔。

あの笑顔の裏に隠されていたストリーが、どんどん頭の中にできあがってしまった。

断片を繋げておはなしを作るのが小さい頃から得意だった。
いつまでもどこまでも、広がるおはなしを作っていった。

嘘はいつもわたしを守ってくれた。

本当のことは残酷すぎる。
だから私は、好き勝手に頭に浮かぶ作り話だけを愛していた。

なのに、その「作り話」までもが、わたしに背を向けて、遠いところまでひとりで歩いていってしまう。


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posted by noyuki at 22:27| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ミドリの森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月09日

「ミドリの森」 3 ナコ

早川奈津子という自分の名前が嫌いなわけじゃない。
だけど、ナコと呼ばれるのが一番好きだ。
幼稚園の頃に母と別れた父はいつもわたしの事をそう呼んでくれていた。

男を好きになるのに時間はかからなかった。
「どう呼んだらいいの?」と尋ねてくれたから。おかげでわたしは「ナコ」という名をもう一度手に入れられた。

母が仕事で遅く帰ってくるまでのあいだ、絵を描いてすごした。太陽の絵、花の絵、キラキラ光る虹の絵。その下に広がる平原。日没のあとに少しずつ忍び込む薄紫色の闇。
それからわたしは絵を繋げて、おはなしを作る。ここから先は紙もクレヨンもいらない。わたしの頭の中の世界との対話だ。
わたしはどこにでも行けたし、何にでもなれた。魔法使いの少女だって、小鳥だって、いじわるな魔女にだって。

小さなキッチンの孤独に押しつぶされそうな夕暮れでも、集中すれば世界はキラキラといつまでも広がっていた。

母は、わたしの絵を一回でも見たことがあっただろうか?

仕事と家事に追われていたヒステリックな母が、ときおり夜遅くに声を潜ませて誰かと電話で話している。それに気づいたのは中学生の頃だ。

低く透き通った、艶やかな笑い声。

わたしが卒業して働くようになったら、母はその人と一緒になれるのかもしれない。そんなハッピーエンドを想像していた。

高校卒業後にネイルの学校で学び、わたしは今のお店に入ることができた。
だけどもハッピーエンドは来なかった。その頃には、長年の不倫の果てに、母は相手の家族からの嫌がらせに追われることになり、酒量ばかりが増えていった。

同じ町のこんなに近くに住んでいるのに、保証人の印鑑を押してもらったあとはすっかり足が遠のいた。住んでいたアパートに今もいるのかどうかわからない。最初の数回電話を無視しただけで、もう携帯に着信が入ることもなくなった。

幻覚や妄想や虚言に翻弄されていた母は、わたしの中で静かに死に向かっていく途上にいる。
もう、いいんだよ、と思う。
苦しい思いを引き摺って、彼女の心は治せない。何度も自傷を止めて悪かった。
そんなに苦しいなら、終わらせていいんだと思う。

捨てられることには慣れている。あんなにかわいがってくれた父さえ私を捨てたんだもの。
母親は家を出ていくときに私を見捨てるのか?って叫んだけれど、それはまったく違う。

あんたの方が、ずっと先にわたしを見捨ててたじゃないか。

(続く)



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posted by noyuki at 22:11| 福岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ミドリの森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月12日

ミドリの森 2

ミドリ

目覚めたら、天井の色がいつもとちがってた。
私の部屋の木目の天井ではない、白いクロス貼りではないか。どうして私はこんなところにいるんだろう?
つぎに、誰かの気配で自分が目覚めたことに気づいた。

カラダの中からクチュクチュって音がする。私の水音だ。知らない指先が、その水音を確かめているのだ。
そして、確かめ終えると、今度は私をこじあけていった。
自分でも意外なくらいスルスルと、ヘビが私の中に滑り込んでいくのがわかる。
薄暗いトンネルをスルスルスルスル。トンネルの壁が気持ちいい。

と、ここでようやく目を開いてみる。
私が目を開いたのも気づかずに、私の上で動いている男がいる。
しばらくしてやっと気づいて、首すじと耳たぶのあいだくらいの場所にキスをしてくる。

誰だっけ?
どうしてこんな所にいるんだっけ?

トンネルの探検が続くあいだ中、私は記憶をたぐっている。
快感は鈍く、目覚めないままで、長くは続かない。
だけど、嫌ではない。
ひさしぶりに私が欲しがっていたのが自分でもわかる。

そうだ。
ショットバーでしこたま酔っ払って、この男の部屋にいっしょに帰ってきたんだ。
「やろうよ」って、たぶん、私だ。そうだ。それだけは覚えている。

男の部屋にふたりで倒れこんで泥酔して寝てしまって、明け方に私たちはこんなことをしてるわけだ。
そこまで記憶が戻ったところで、ああ、そうか、と思っていると、男の動きが激しくなってそれからピタリと止んだ。荒い息遣い。
顔は覚えている。好みの顔だ。けれど名前を知らない。性格もなにも知らない。この男と出会ったときは、わたしはもうしこたま酔っ払っていて、それでも家に帰る気がなくて、誰かと一緒に夜をすごすことばかりを考えていたからだ。

男が、シャワーを先に使うといいと私に言う。デッドラインは8時だから、あと2時間。コーヒーでも煎れるよ、と。

つまりは、男はこのあと仕事に出るわけで、その時間にここから追い出されるという意味だ。土曜日だけど、休日出勤なんだって。
家に帰るのもおっくうだし、バッグのポーチでありあわせの化粧をして、そのまま仕事に行くことにした。
外に出てみると、職場のあるショッピングセンターがものすごく近かったことに気づいた。
かなり早い出勤になるけれど、それは仕方ない。

ああ、またやってしまった。
ほんとはセックスなんて大嫌いだって思っているくせに、月に1、2度、なにかの拍子に誰かとやりたくて仕方なくなる。、この男とははじめて。そもそも、昨日はじめて会って、はじめて口聞いたくらいなんだから。

誰にも一生言わないって決めたことがある。
私は一生、そのことを喋らない。
そして、あの男はもう、この世にはいない。
もう誰もそのことに触れることはできないのだ。
たしかにあった事でさえも、そんなふうにして、なかったことにしてしまえるだろうか?
してしまえればいいと、心底思う。だけど実際にあったことを、なかったことになんてできやしない。誰にも言わなくったって、私は自分がそれで幸せになれるなんて思えない。
人生はおもしろくない。むしろ、つらい。いつ死んだって、いい。その瞬間私は、ああ、やっと終わったって思うにちがいない。

そうして私は、月に一度くらい、誰でもいいから抱かれたくなってしまう。
一体私のカラダは何を望んでいるのだろう?

私が早く着いたのでサトミが少し驚いた顔をした。
その他は、日常は何も変わらない。
わたしはまだキレイだし、若い時のままのプロポーションを維持している。夜ごとの酒まみれにしてはいい成績だ。わたしは客にも男友達にも羨望の目で見られる。

歓楽街に向かう男たちは、駅の構内よりも近道になるという理由でショッピングセンターの二階通路を横切ってゆく。
そして目の端で、顔見知りの男たちは。私がネイルサロンに座っていることを確かめる。
ときには、自分のいる店を耳打ちしてゆく。

この場所にいるかぎり、飲み友達に事欠かない。
だからわたしは、本店よりもこちらの店の方が好きなのだ。

(まだ続くかもしれない)


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2012年11月23日

「ミドリの森」 1

* サトミ


朝、出勤するとミドリ先輩はもう出社していた。キラキラ光るネイルの並んだショーケースの上を乾いた布で熱心に拭いている。
あれ? わたしが早番でミドリ先輩が遅番では? 一瞬考えて、壁のシフト表を見ようとすると、ミドリ先輩が顔をあげた。
「あ、びっくりした? ごめんね。早く来すぎただけなのよ」
あいかわらず隙のない化粧だ。塗りすぎて見えない透明な肌に、これまたシアーなブラウン系のチーク。今日も毛先のカールまで完璧。そして目を細めた笑い顔はどこまでも優しい。
「でも先輩今日遅番なんでしょ? 夜の10時まで12時間もお店にいるんですか?」
あ、そっか、とミドリ先輩は今更気づいたかのようにつぶやく。
「お昼休みを長く取らせてもらうから。早川さんが風邪だし、休日に二人だけだと大変だろうし」
早川さんは数日前から体調が悪くて休みを取っている。私には妊娠したかもって言ってたのに、ただの風邪だったんだろうか?
「さ。日曜日で忙しいけど、サトミちゃんもがんばってね」
そう言ってミドリ先輩はフリスクをいくつか振ってくれた。

ショッピングモールの一角にあるネイルコーナー。
そこがわたし達の仕事場だ。お店と呼ぶほどのスペースじゃない。二人座れば満杯のオープンスペースだ。本店のサロンと別にこんなところで? と思ったけれど、飛び込みのお客さまが多くて、まあまあ繁盛してる。ただし単価は低めだ。

わたしはまだ新人でこっちで若い人相手くらいしかできないんだけど、ミドリ先輩はちがう。すごいアートなネイルだって作れるし、本店で指名されることも多い。
だけど、ミドリ先輩は本店よりもこちらが好きだって言うし、土日はレジ閉めもあるのでこちらに来ることがほとんどだ。変わってるって思う。
ここは人の通りがうるさくて、ネイル作ってても、しょっちゅう誰かが覗いていくし、一番安いのばかり学生がやりたがるようなお店だ。何よりも本店とは格がちがう。
なのに「密室って苦手なの。こっちの方が広くてざわざわしてて安心するの」って言う。
おまけに安いヤツでもすごく丁寧にしてくれる。爪のカタチを褒めて、初めての人にもきちんとお手入れ方法とかも教えてくれて。
おまけに私達スタッフにもいつも優しいし、気遣いの人で、ほんとすごいなあって思う。
ある日、そう言ったら「あら、コツさえ飲み込めば簡単なことなのよ」ってミドリ先輩は笑った。

「それってすごく簡単なことなのよ。自分が言いたいことを言うんじゃないの。相手がなにを言って欲しいかを考えてそれを言うの。だって、お客様っていい気分になりたくていらっしゃるのだから。それを叶えてあげればいいだけなのよ」

それを聞いたとき、はじめてミドリ先輩のことが怖いと思った。
いや、それは客商売としては当たり前なんだけど、ミドリ先輩は少なくともそんなふうには見えなかったのだ。それで、もしかしたら、この人怖い人なのかも、ってはじめて思った。

それからわたしは、夜寝る前とかに時々ふっとミドリ先輩のことを思い出すようになった。そして思い出すと、心に小さなトゲがつきささってるような気持ちになってしまうのだ。
あんなに優しくて、すごくステキなのに。
ミドリ先輩は、わたしに対してももしかしたら、「わたしが言って欲しいこと」を言ってくれてるだけなんだろうか?

(続くかもしれない)


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posted by noyuki at 22:18| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ミドリの森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする