2023年03月19日

ミドリの森 12「ミドリ」


連作ですが、一話ずつ読めます。
そして今回が最終回です



********************


よりママの店に「For Rent」の看板がかかった。

よりママはどこに行ったんだろう? ホスピス? それとももっと遠い場所?
今更なのだがわたしは、よりママの連絡先を知らなかった。

「すごく強い痛み止めがあるんだよ、おかげでこうしてお店の片付けができる」
先週のよりママはストローで炭酸水を飲んでいた。
癌がどんどんカラダを喰っていくんだよ。喰っていくって言われてもわからないだろうし、うまく説明できないけど、とにかく喰ってるだよ。痛いよ、喰われると。

ホスピスの入院待ちだと言った。
「調整がついたら連絡くれるってさ、なんだろうね、調整ってさ。あ、心配してくれなくても大丈夫。こうみえても息子がひとりいるんだよ。今は帰ってきて手伝ってくれてから、後片付けまで全部まかせた」
自分で決めるのが好きだから、なんでもお任せてってのもなんだかなあって思うんだけどね。よりママは短く言った。
「じっと寝て待つのも心細くてさ。だから、調子のいいときは店にいるんだよ。タイミングが合えば、お別れだって言える。そして、言い残したことも、うまくいけば聞いてもらえる」

相変わらず年齢不詳だ。
心持ち痩せた分、シワの刻み具合が深い。保湿が足りないせいだ。
フェイスマッサージでもしてあげれば少しよくなるかもしれない、けれどそれは彼女の望んでいることではないような気がした。

「ミドリちゃん」
息を吐くような小さな声でママがそう言った。
何十年もその呼び方をされてなかった。
思い出した。若い頃のわたしを、よりママはそう呼んでのだ。

「あんたの父親はあんたにひどいことをしてたんだろ?」
背中に冷たいミネラルウォーターがちょろちょろと流れたような気がした。

「昔はもっとえげつない言い方してたんだよ、でも(ママ、いまどきはセイテキギャクタイって言うんだよ)って教えてもらった。まあ、その子もそういう子だったからね。いや、あんたに、そのことについて喋れなんて言わない、聞いたからってわたしには全然関係ない。だからどうでもいいんだけどさ。わたしはそう思ってたって。最後だから、言ってもいいのかなって思ったんだ」

血管を流れる血の音が身体の中でドクンドクン言っているのが自分でもわかった。
わたしはセイテキギャクタイなんて受けた覚えはない。
家族に対する嫌悪感はずっとあるけれど、それは、そういう言葉のものとは違う。

「ごめんよ、違うんだったら違うでいいんだ。それだったら失礼なことを言ってしまったことは謝る。でもね、わたしは鼻がいいから人の匂いは間違えない。たとえば家族の誰かが、あんたのおまんこを見たり指入れたりしていたら、それはセイテキギャクタイなんだって言いたかったんだよ」

父親は大学病院の医師だった。だから我が家には通院するという習慣がなかった。
大きな病気でもすれば違ったのだろうが、ほとんどの場合は父親がなんらかの診断をするのが常だった。
「おとうさん、ミドリが熱が高くて」などと母親が言うと、父親が診察した。
父親は大きな声で怒る人ではなくて、威厳があって、母が父を尊敬していたのか怖がっていたのか、何もかも見なかったことにしていたのか、今はわからない。
わが家では定期的に若い医師を呼んでのホームパーティがあった。そういう医師たちに「ミドリちゃんのお父さんはほんとにすごい人なんだよ」と言われて、わたしの外ヅラは「プリンセスのようなひとり娘」だった。
父は食事のあとに、寝ているわたしの部屋にやってきて、体を触り、胸を触り、性器に指を入れ、中学生になったあたりからそれはもっとおぞましい形になったのだが、わたしはそれを言葉にすることができなかった。「どういう言葉」がそれに当てはまるのか、わたしにはわからなかったのだ。

言葉にならないというのは恐ろしいことだ。
感じていることがわからなくなってしまう。
おとうさんがしていることが、いいことなのか嫌なことなのかもわからない。
わからないから拒否しようにも逃げようもない。
自分の中で「この部分だけがすっぽりと」言葉にならないまま抜け落ちている。
この年になって、今の今まで、わたしは、このことを「言葉」に変換しないままに、ずっと生きてきたのだ。

「ミドリは気管支が弱いから」」というのが父の口癖だった。たしかに季節の変わりめに明け方のぜいめいはあった。それを確認するために父親は定期的に真夜中のわたしのベッドを視察した。
わたしは病院に行ったことのない子供だった。
そして、父が死に、母を見捨て、ひとり暮らしをはじめてから、やっと「世間の病院で行われている診察」とはわたしが思っているものとはまったく違うことに気づいたのだった。

セイテキギャクタイ? 馬鹿にしすぎだ。そんな安っぽい言葉があてはまるようなもののために、わたしはずっとひとりでいたのか?
まるでわたしが、当たり前の不幸に酔いしれるおんなに成り下がったみたいじゃないか。
血のドクドクは止まらなかった。
顔もこわばって、グラスを持ち上げることもできなくなってしまった。

女子大を選んだのは男の人が怖かったからだ。
なのに、こわいのに、わたしのカラダの欲がまた、男の人を求めて。
そして、絶望した。
裏切られるまで、わがままを言い続ける共依存。
よりママは、そんなわたしのことを一番身近に見ていて、そして見て見ぬふりしていた。

「そんな子を何人もみてきたし、自分で話してくれる子もいたよ」よりママがそう言った。
「がんばるって言ったり、いい人みつけたから忘れたいって言ったり、やり直したいって言ったって、なぜかみんなダメになっちまうんだ。アル中になったり病院に入ったり行方不明になったりして、みんなどこかに消えてしまったんだ。
おおきな木の真ん中ががらんどうで、それで、腐って折れてしまうみたいにさ。ぽきんといなくなってしまうんだよ。だから、いつかあんたもそうなるような気がしていた。
けれど、ならなかったよね。なぜだかわからないけれど、あんたはそうならなかった。あんたは生き延びたんだよね。
あんた、今や偉い人なんだろ? 前から美人でスタイルよくて、凄みがあったけれど、今はまた別のものがある。わたしは鼻がいいんだよ。なんていうか、誰にも負けないくらいゴージャスでさ。すごいオーラがある。おんなとして素敵って見られたら、勝ちみたいな、そういう世界にいてさ、あんた、堂々と勝っているんだろ?」

まさにそのとおりだ。
わたしが店長になってから、売り上げがのびた。
世の中は景気も悪くて災害も疫病も続いて大変だったけれど、そんな時でもなぜか利益は増え続けた。
やっかまれたり恨まれたりもあったが、わたしはもう誰とも同じ土俵にはいたくなかった。
ネイルサロンドルチェで、ナコやサトミが、他人と比べずに自分を生きてきたみたいに。
わたしは等しく誰にでも、笑顔と「あなたが、美しく、幸せな人生が送れるように」という気持ちを贈り続けようと思ったのだ。

このお店という世界の中では、どんな呪いの言葉も封印して、自分の最高の微笑みを贈り続けようと。
店長になったときにそう決めたのだ。

「喋りすぎて、疲れてしまったよ」よりママが言った。「レジに薬を入れてるんだ。取ってくれないか?」
言われてレジを開けてみると、からっぽのレジの中に薬の袋だけがおさまっていた。
水はいらない、と言って、よりママは薬の袋をとって口に入れた。
しばらくはそのまま顔をしかめたりしていたが「なかなか効かないね、もうひとつ」と言ったので、また手渡す。
薬を飲んだママは「大魔神!」と小さく叫んで、それから肩を上下させていた呼吸が少しずつ落ち着いてきた。

「今日はこれで閉店。あしたはわからない。閉店セールだから、お勘定もいらない。迷ったけれど、今日はお店に出れてよかったよ。ミドリちゃん、あんたは生き延びたって言いたかったんだ。ずっとずっと言いたかったんだ。そんな恥ずかしいことは死ぬまぎわじゃないと言えないね。死ぬまぎわだけど、言えてよかったよ」

鍵は心配ないから玄関から出ていっておくれ、というよりママに「元気でね」と言って握手した。
「ホスピス行こうってときに元気でね、はないだろ? でも、祈りの言葉は気持ちいい。祈りってのは、誰かが自分を幸せにしてくれる感じだよ。ミドリちゃん、さあ、ドア閉めておくれ。もう休みたいからさ」

重たい木のドアをゆっくり閉めた。
たぶん、このドアを開けるのも閉めるのもこれで最後なのだろう。
カールアップしたマスカラが崩れてしまうので、今は泣かない。

だけど、家に帰ったら泣くかもしれない。
サトミが毎年送ってくれる年賀状を飾っている、フォトフレームを前にして。
わたしは、今日は泣くのかもしれない。

子供と一緒の家族写真なんて、わたしは嫌がるってわかっているのに、毎年送ってくれる、サトミの年賀状。
それををまとめて飾っているフォトフレームを見ながら。
ウエディングドレスから、赤ん坊の写真から、いつまでも変わらないサトミ夫婦の笑顔を見ながら。

わたしは今日は、大きな声で泣いていいのかもしれない。





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2023年01月06日

ミドリの森 11 ミドリ

シャワーを浴びていたら、足もとに真っ赤な鮮血が落ちた。
あざやかな赤が、きれいな形になりそこねた花火のようにタイルに飛び散る。
痛みはない。
こころあたりはある。
シャワーでその赤い血を洗い流した。

それから、赤い血の「こころあたりのある場所」を指でさわってみた。
少し粘り気のある血の塊が指にまとわりついた。

ああ、真っ赤な血だ。

わたしのカラダはなんの痛みもなく、こんなに赤い血を外の世界へと差し出し続けていた。
毎月毎月。
生きるための「スタンプカード」のように。規則正しく差し出し続けた。

もう、スタンプカードはそろそろ満杯のようでスタンプを押す場所がなくなっていって。
だから、きちんとした場所以外に乱雑にスタンプが押されてゆくんだろう。

わたしは、お店で使われているスタンプカードを思い出して、ちょっとおかしくなって笑った。
わたしにはもう、新しいスタンプカードは発行されない。

身体を全身鏡に映してみた。
毎日見ていて、さほど変化があるようには見えない。
それでも、わたしの中身は少しずつ変わっていってるのだと思う。

真っ赤な鮮血は不意にやってきたり、長いことやってこなかったり、びっくりするほどの量だったりして、「不正出血」という言葉を使ってもいいのかもしれないと思った。
が、婦人科を訪ねるほどのものではないことはなんとなくわかる。
外に出てゆく血は、なにか、わけのわからないものをわたしの身体から奪ってゆく。
でも、奪われてもいい、
奪われれば、少しは楽になるかもしれない。

わたしは30代を終えて40代になった。



*    *    *


新しいお店でのポジションは「チーフマネージャー」という名前だ。

仕事の内容はさほど変わらない、と言いたいところだが、どちらかというと管理業務の方が増えて「シフトの調整とか」に時間をとって、じっくりと現場にいることはできなくなってしまった。

頭の入れ替えが大変。

誰かの爪に「ネイルの宇宙」を作り上げる時間と、スタッフの出社できる日と休日をパズルのように調整する時間。

ふたつは頭の使い方はなかなか同居できない。

ショッピングモールの「ネイルサロンドルチェ」を撤退を決めかけていた頃、ナコは事故でなくなった。
サトミは本店に移動することなく退職した。
ネイルサロンドルチェはなくなり、わたしだけが本店の「サロン・ド・ドルチェ」へ移動になった。

今でも、わたしは頭の中で彼女たちに話しかけてしまう。

ねえ。ここのお店はね。スーツ姿のサラリーマンがお店の外を歩いているところなんて全然見えないのよ。
外国の、たとえばバリ島のリゾートホテルみたいな感じなの。
リンパマッサージや脱毛、フェイスマッサージ、なんでもできるし、施術者以外とは会うこともなく、気持ちのいい個室の空間でゆっくりと時間をすごすことができる。
施術のあとは好きなドリンクをオーダーして、パウダールームの化粧品を使いながら、心ゆくまでメイクアップもできる。
低いボリュームでどこの国の音楽かわからないものが流れていて。
ひとりでリラックスした時間を過ごしたいのなら、すごく最適な空間なのよ。
ときどきお客様たちは「生理の乱れや更年期の症状」についておしゃべりをするけれど。
それは「風邪をひいたからトローチを買おうと思って」くらいのニュアンスにしか聞こえなくて。
たぶんそれは、お金をかけて何かを解決できる人の生き方なんだと感心してまうけれど。
心地よい雰囲気と心地よい身体のために。お金と時間をかけられる人。あるいは、かける価値があると思っている人の場所なの。

おかしいわよね、ここの休憩室には白熱灯で、カップヌードルの匂いが染み付いているのにね。

他の部門の人と休憩が重なることもあるけれど。パートの人たちは、手短に食事を済ませて夕飯の買い物にいく人もいる。
「ミドリマネージャーには、そんなご苦労はないだろうから」とか「人のために作る食事に追われるのも大変」という言葉に耳を傾けていると「家庭という守るべきものがないから、フルタイムで自分の好きな仕事ができるのだ」
というふうに、彼女たちがわたしのことを見ていることに気づいた。
家庭はない。
わたしはずっとひとりだ。
いつのまにか、男は電話には出なくなってしまった。ブロックされていることに気づいたが、それもそうだろうなと思った。

「え? 夜は外食が多いんですか? わあ! 素敵、なによりも羨ましい。わたしなんか子供がリトルリーグだから、食べる量も多くて」
という言い方が、一種のマウンティングであることにも気づいた。

ねえ。サトミ、ナコ。
ここのスタッフはとてもきれいで技術もすごいけれど、いつも何かを比べたがっているよ。
わるい人じゃないと思うんだ。子供育てながら一生懸命働いて、誰かと比べると自分の立ち位置がわかるんだと思うんだよ。人はそんなふうにして自分の立ち位置を決めてるんだろうなってことに、この年になってはじめて気づいた。
不思議だね。
わたしたちは、お互いにぜんぜん違っていたのに、相手の生活に興味を持つことすらなかった。
わたしはナコのおかあさんのお葬式にいくまでナコの家族のことなんて知らなかったし。
サトミも不登校でやっと卒業した学校のことはずっと話さなかった。

わたしたちは自分のことだけで精一杯だったんだよ。
自分の沼や、自分の足首を掴む手を払い除けることだけを考えていて。
誰にも興味はなかった。
何年も何年も。
余計な興味ももたずに、3人で一緒にいた。
無関心でいてくれるあなたたちのことが。

自分のことしか興味なかったくせに、無関心でいてくれたあなたたちが傍にいてくれたことで。とても安心できていたような気がするんだよ。









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posted by noyuki at 17:06| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ミドリの森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月13日

ミドリの森 10 「サトミ3」 *連作ですが一話ずつでも読めます




わたしはきっと処女のまま死ぬんだろう。

そうにちがいない、わたしは処女じゃないわたしを想像できない。出会いも何もない。わたしは死ぬまでこのままだ。処女のまま私は死ぬのだ。
なぜか、急にそう思って、息が詰まりそうになった。
いろんなところで見聞きするセックスなるものの、動作ややりとりを想像してみた。
みんなが普通にやってることなのに、自分がそんなことやるなんてとても想像できない。
そして、どんなものかも知らないことを。誰にも知られないままに朽ち果てていくのだ。
25歳になった。もう、無理だ。「はじめて」なんて言っても怖気付くだろうし、なによりも私には出会いがない。


*   *   *


ネイルサロン「ドルチェ」が閉店することになった。
といっても、本店はそのまま。わたしが勤めている駅に続くショッピングモールの2階ブースが閉鎖になるだけだ。
ミドリ店長は本店へ移動になった。

駅の西口に大きな本屋とファストファッションの店ができた。すると掌を裏返すように流れが変わった。西口のバスセンターから発着するバスも増えた。
東口の歩道橋につながるこの店の前を通る人は目に見えて少なくなっていった。

かれこれ5年間も同じ店に勤めた。「5年間同じメンバー3人でやり続けたなんて奇跡に近いよね。入れ替わりが激しい業界だから」とミドリ店長は言った。
とりたてて仲がよかったわけでもないし、ミドリさんとナコさんがしばらく冷戦状態だったことも知っている。
原因となった男の顔だって覚えている。いつのまにかミドリさんと懇意になったあの男。
だけど、いつのまにかミドリさんはあからさまに男を無視するようになった。
わたしは「一度決めたら二度と振り返らない」氷のようなミドリさんの背中をじっと見ていた。


*    *    *


ナコさんが死んだのは、ショッピングモールの二階ドアにつながる歩道橋の踊り場だった。
ナコさんのお母さんがなくなり、いろんな片付けがやっと終わったと話してくれた日の早番の帰りだった。
歩道橋をわたると、店から、大通りの向こう側に行くことができる。閉店後もいろいな人が行き交う、大きな歩道橋だった。
風雨の激しい台風前夜だった。風にとられそうな傘を持つのに必死で、誰も気づかなかった。
どすんをいう音が聞こえて、待合のタクシーとタクシーのあいだにナコさんは落ちた。即死だった。
事故か自殺かわからない。
警察にも聞かれたけれど、わからない。部屋のなかにもヒントのひとかけらもなかったという。
連絡できる身内のひとりも見つからぬまま、部屋は「業者」が片付けた。

*     *     *


「どうしても本店には行かないの?」
「お誘いはありがたいと思っています」わたしはそう答える。
「ナコさんやミドリさんみたいにすごい才能を見てると、わたしはこの世界ではやっていけないと思ってしまう」
「ナコは特別だった。でも、あくまで特別よ。特別でなくてもわたしたちはここにはいられる。で、あなたはこれからどうするの?」
「わからない」

わからないんです、ミドリさん。ほんとにわからないんです。貯金も失業保険もあるし、しばらく自宅にいることはできる。それからわたしはどうするの?
どこかで適当なバイトをして、それから誰かと出会って結婚するの? でも、セックスはできないんです。この年まで処女だなんて言えるはずがない。言わなくてもきっとわかる。いや、その前にわたしは、セックスなんてたぶんできるはずがない。
わたしはもう何年も父親以外の男性と話したことなんかないし、不登校だったわたしがなんとか仕事してきたことを母は喜んでるくせに、それ以上のことを望んでいない。
そう、母親は、この家を出ればわたしは孤独と不安と人間関係で押しつぶされて死んでしまうと思い込んでいる。
いつまでもこの家にいるんだって思い込んでいる。
わたしは飛び立つ前から「あなたの羽には傷があるから飛ばなくていいのよ」と言われ続けて、うっすらとそれを信じこんでいるんです。


ナコさんみたいにわたしもいつか死ぬの。
わたしはどこにも飛び立てなくて、処女のまま死ぬの。
それまでのあいだ、とても長くて気絶しそうなくらいの退屈な毎日を過ごしていくの。
そのことを考えると気が狂いそうだけど。
ほんとに、じゃあ、ほんとに何をすればいいのかわからないんです。

「生きているっていう退屈は、いつになったら終わるのかしら」
ミドリさんがそう言った。
「ナコはそれを終わらせたかったのかな? 彼女の母親は、なくなったあともナコの足首をつかんで離さなかったのかな? ナコはもう、母親から開放されたと思ってたのに。解放されたと思ってたのは、私だけだったのかな? それとも、事故だったのかな? いつもそんなことを考えてるの」
LINEの既読がつかないんだよね。
なくなっても、一回だけは返信できるとか、どんなに世界が進化しても、そういうことだけはできないんだよね。

*     *     *

わたしたちは、お店のバックヤードから、東口の大きめのカフェに移動した。二人で飲むなんて始めてだ。いや、誰かと飲みに行くなんて本当にはじめてだった。

カクテルを勧めるミドリさんに「カクテルなんて飲んだことない。家でビールをお相伴するくらいだ」と言ったら、驚いて、甘いカクテルを注文してくれた。
カシスオレンジ。どこにでもあるカシスリキュールとオレンジジュースのカクテルよ。どれを頼んだらいいかわからない時に便利よ。

そして、甘いカクテルに口をつけたあたりで、いきなり二人組のスーツの男性が声をかけてきたので心底驚く。同じフロアのお茶売り場の二人だった。
「こういうところでお会いするなんて意外ですね。同席しませんか?」と、若い方の顔見知りが言ったが「ごめんなさい、今日は二人で話したいの」と本当にさらりとミドリさんが断ったので、その鮮やかさに驚いた。
「では、またいつか別の機会に。渋田さん、お食事に誘わせてください」と、大柄な方の男性が言った。耳がまっかだった。耳って赤くなるんだとびっくりするくらいの赤さだった。
わたしの苗字、渋田ってどうしてわかるの? ああ、ローマ字の名札をつけてたからだ。でも、気づいてくれてたんだ。
わたしは何も言えなくてうつむいてしまった。

ミドリさんがくすくす笑いながら言った。
「ドルチェは今月末でテナント撤退するんです。だから、早めに来て。そして彼女のもう一度同じことを言ってみて。それまでに返事を考えておくように言っておくから」
大柄の男は耳をまっかにしたまま、頭をさげて席を離れた。若くて痩せた方の男が、彼の肘でつついて笑っていた。

「茶舗の3代目はやり手で人間性にも定評があるって評判。でも、そんなことはどうでもいい。どうでもいいけど、あなたが決めるのよ。どうでもいいこと、どうなるかわからないこと、そんなことをいっぱいいっぱい決めていくの」

早いペースのミドリさんのお酒はウォッカの3杯目になっていた。
ねえ、酔っ払っていい? 酔っ払いの戯言をいっぱい言っていい? とわたしに尋ねる。
わたしもなんだか楽しくなった。
どれだけでも言ってください。

あなたがお店を辞めるのはすごく残念だけど仕方ない。
これから失業保険もらいながら、職業訓練に行くのもいいわよ。あなた、すごく頭いいわよね。パソコンでも経理でも介護でもなんでもいいから、新しいことを勉強するの。
学校に行き直すの。おそるおそる知らない人と話したり友達になったり、人間関係が嫌になったり、あてにされて勉強教えたり、試験の問題をいっしょに解いたりするの。
そしてパソコンができるようになって、あなたは茶舗の3代目の片腕になるの。あははは。

今度はわたしの耳が赤くなった。
急に耳がジンジンしてきて熱くなったので、きっと赤くなったんだろう。
慌てて耳を掌で触ってみる。

耳ってやっぱり赤くなるものなんだ!


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posted by noyuki at 11:36| 福岡 ☁| Comment(0) | ミドリの森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月20日

「ミドリの森9」 ナコ

短く息を吸い、そして呼吸を止める。
空気の流れがなくなり真空が広がった。
磨きあげて、色のないわたしの爪。
そこに、あの日の淡いブルーの空の色を一気に塗った。

金曜日。
休暇を終えて仕事に出て、ひさしぶりに、ミドリさんとわたしが顔を合わせ、そして遅番のサトミが揃った。
平日だし、休憩時間を長く取っていいから、まず自分の爪をきれいにしなさい。ネイルサロンに来る人がみんなが息を飲むような、あなたらしい爪にしてちょうだい。
ミドリさんがそう言った。

バックルームに材料を持ち込み、わたしは自分の爪を描く。

薄いブルーにグラデーションで漆黒の闇を重ねていった。
爪先に向かって濃い黒を重ねる。あの日の空が夜に変わってゆく。
夜の闇のてっぺんには銀色の光。小さくちりばめた銀ラメは爪の先端に集まり、三日月をさかさにしたようなひとすじの銀の天空になった。

わたしの心がみんなそこに集まった。
別れも空虚も雑事も絶望からの解放も、どこにも行けなくて淀んでいたものが、みんなわたしの爪の色に変わった。
きちんとしたカタチになって、心の中から何かがふわりと出ていった。
自分が作るものだけが、本当に自分を映してくれる。
それが誰かを救うほどのものではないとしても、わたしだけは救ってくれるんだなと、そのとき心底思った。

バックルームを出てゆくと、ミドリさんが、ステキねと言ってくれた。
サトミはもっと大げさだった。
「ほんと、奈津子さんてすごい。叶わない。うまく言えなくって悔しいくらいだわ。なんていうか、空がほんとうに爪の一本一本にある感じ?
ああ、わたし、とてもこんなふうにはできないけれど、見てて、すうーっと心の中に広がるような感じで。見てるだけでもう、なんか、いろんなものが溢れてきそう」

夕方近くに来た常連の女性も、同じにしてくれないかと言った。
「明日のパーティーのドレスに似合いそう、ジェルネイルで同じデザインにして」と。
パーティーならばもう少しばかり華やかにしませんか? と爪先の銀に金色も織り混ぜた。
なくなった母親を見送った日の空の色よりも、あなたの明日がもっと明るい空になうようにと心の中で祈った。
「ほんと、こんなにステキにしてくれてありがとう! 」と常連の女性は喜んだ。「ああ、明日着るラベンダーのドレスが楽しみ」

小さい頃から、絵を描くことが好きだった。
留守番してる自分のさみしさを忘れるための小さななぐさめ。
それが今になっても、まだわたしが生きのびるために小さななにかを与え続けてくれている。
忙しく貧しい暮らしの中で母は、100均のペラペラの落書き帳だけは切らさないでくれた。クレヨンも色鉛筆も、みんな100均だったけれど、それはボロボロになった菓子箱の中に宝物のようにひしめいていた。

おかあさん。悪いことばかりじゃなかったよね。
あの頃わたし、おかあさんが帰ってくるのがとても待ち遠しかったよ。
きれいな絵ね、っておかあさんが言ってくれるのが、ほんとうに嬉しかったんだよ。

きっとそれが、わたしの1番最初だったんだよね。



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posted by noyuki at 15:07| 福岡 ☔| Comment(0) | ミドリの森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月13日

ミドリの森 8 ナコ4

晴れた日の午後。暑くもなく寒くもなく風もおだやかで、秋の空はかぎりなく広い。
そこに1本の白い煙が、迷いもなくすっと天を目指して登っていった。
別れはそれなりの空洞を残したけれど、精一杯手を振って見送りたくなるような清々しさがあった。
わたしは今、母が焼かれて天に上っていくのを見送っている。

日曜日の午後の一件から、平日が終わる金曜日までの休みを店長のミドリさんが手配してくれた。
「本店から応援を頼むこともできるから、ゆっくりといろんなことを片付けて」と言う。
大嫌いなミドリさんだが、仕事になると、その対応に感謝するほかない。表向きだけだとしても、彼女は仕事でだけは信頼できる。

ひとりで芝生に出て、もう一度火葬場の控え室に戻ると、民生委員の田中さんが来ていた。
彼女は思い出話をしたがった。そうすることが母への供養だとでも言うように。わたしたちの中学時代のことを話した。
「あなたが学校を出るまでは、ってすごくがんばってらっしゃったわよね。いっしょに居酒屋に行ったこともある。話も少し聞いたわ。前のダンナさんの暴力から逃げたこととか、それからのこととか。パート先のスーパーでもよく会ってたから。体調を崩して休みがちになってからも、時々行ってたの。民生委員としてじゃない。近所の友人だとずっと思ってたわ」
それから彼女は娘のミホコの話もした。
「ミホコはよくあなたのことを話してた。美術部でもとても素敵な絵を描いてて叶わないといつも言ってた」と。
ミホコは美術系の大学を出て、市内の印刷会社にいるという。
叶わないのはわたしの方だ。大学で絵を学ぶなんて思いつきもしなかった。早く家を出たかったわたしには、そんな道は目の前に見えてなかった。
素直にわたしの絵を褒めていたミホコ。あれはお世辞でもなかったんだな。それを聞くと悪い気はしなかった。
もっとも田中さんさんは、ミホコの自慢をしたかっただけなんだろうけど。

「ねえ。親子なのに。どうして気にかけてあげなかったの?ただひとりの家族なのに。彼女はあなたの携帯番号すらも知らなかったのよ」

(当たり前だ。知られたくなくって番号変えたんだから)

「嫌いでも仲が悪くても血は繋がってるの。みんな、お腹を痛めて、死ぬほど苦しんで産むの。本気で嫌いになんてなれるはずないじゃない。ねえ、そう思わない?」
田中さんはいつのまにか缶ビールを飲んでいた。
母と同じ種族なのか、それともお酒の力を借りなければ言えないとでも思っているのか?
「わたしも悔しい。もっと早く気付いてあげればこんなことにならなかったのに。でも、あなただって悪いわ。家族のあなたは、もっとちゃんと助けてあげなくちゃいけなかったのよ。母娘なんだもの」

(この人は何を言ってるんだろうか? 誰かが母を助けられると思ってたんだろうか? そんなことありえないし。そもそも、助けてあげられるのは、わたしじゃないはずだ)

ドアの向こうから黒いワンピースの女性がやってきた。
髪をアップにしたミドリさんだ。

まるで外国映画に出てくるようなシックないでたち。ケバくなく、ハッと息をのむような、美しさを放っている。
「奈津子さんの職場の者です。このたびは大変なご足労をおかけいたしました」
そう言って、ミドリさんは斜め90度近くまでキチンと腰を折り曲げた。会社の研修で習ったとおりの(一番ていねいなお辞儀)だ。
「私共の配慮が行き届かず、奈津子さんに頼るばかり申し訳ございませんでした。そのせいで田中さまにも多大なるご負担をかけてしまいました。大変感謝しております」
芝居がかっている。でも、先手を打つには十分だった。
「奈津子さんには金曜日までお休みを取ってもらってます。ですが、私どもも、少ない人数で切りもりしているものですから、少しばかり奈津子さんから引き継ぎの話を聞かなければいけません。大変申し訳ないのですが、この時間にちょっと奈津子さんをお借りしてよろしいでしょうか?」

相手に有無を言わせない。そういう完璧な強さだった。
田中さんがたじろいでモゴモゴ言ってるあいだに、それではちょっと失礼します、そう言ってわたしを庭に連れ出した。

外に出ると同時にミドリさんはタバコに火をつけた。
「あんな、ちっぽけな正義に付き合うことなんてないのよ」
ミドリさんの顔に静かな炎。
「嫌いな親だっている。助けあってなんていられない。離れていなきゃ自分を守れない。できれば一生会わずに過ごしたい。そんな親子だっているのよ。面倒みたり、苦労して介護したり、そんな話ばっかで、反吐が出ちゃう。もちろんそういう人だってすごく頑張ってるんだろうけど。それはできる人がすればいいのよ。押し付けないでって思うの。嫌なら逃げればいい。ほんと、それだけのことだってわたしは今でも思ってる」

短くなった煙草をベンチの脇の灰皿に押し付け、ミドリさんは立て続けにもう一本タバコをつけた。
「父親とは一生会わないつもりだったから、死んだって聞いて心底ほっとしたわ。これで縁が切れるってね。でもね、死んでしまったあとにも、わたしはずっと、あの男の呪縛に囚われるているの。あなたはそんなふうにならないで。おかあさんのこと嫌いだったんでしょう? 民生委員の話を聞いてるあなたは心底嫌そうな顔してたもの。だったら、すっぱり忘れて生きなさい。わたしみたいに、親の毒が身体中にまわってしまわないように」

(苦しくないんですか?)
 などとはとても聞けなかった。
だらしなくてとんでもなくて嫌なヤツであるミドリさんが、どこでもがいているかが一瞬のうちにわかってしまったからだ。

さあ、きちんとお別れしてきなさい。
もう、誰も、あなたの足首を掴んでこないように。

ミドリさんが短くなったタバコを消した。

目を瞑り。ぐっと力を込めて背筋をのばす。
誰かの不幸が、もう2度と、わたしの足首を掴みにこないように。

わたしは骨だけになった母の元へと戻った。



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posted by noyuki at 14:46| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ミドリの森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月29日

ミドリの森 7 ナコ3

久しぶりの実家はなんだかとても落ち着かなかった。

幼い頃に母と引っ越してきた古びたアパートの2階の1DK 。何年もここで布団を並べて寝ていたはずなのに。懐かしさも何も感じない。
絵を描いてたテーブルは今も健在だった。
ぺらぺらの落書き帳とクレヨンを広げていたテーブル。母の帰りを待つ時間に、わたしが熱中していた小さな宇宙。最後は書き込みすぎて、くしゃくしゃになるか、紙が破れてしまってたけれど、それでも大事に使っていた落書き帳。
今、そのテーブルの上には、酒瓶やペットボトルやお惣菜が入ってたプラスチックや茶渋で真っ黒になったコップが山のように積み上げられいる。

そして、その脇には柩があって、母は今そこで眠っていた。

家財道具の少なかったガランとした1DKは、いつのまにか見事なゴミ屋敷になってた。
近くのコンビニでゴミ袋を買ってきたけれど、手のつけようがない。
飲みかけのペットボトルや酒瓶を、シンクに捨ててまとめようにも、洗い物がいっぱいでどうにも動かしようがなかった。底辺が見えない。いや、少し見えているかも。そこには真黒いものが分厚くこびりついてていた。
コンビニのゴミ袋のままの食べかす。服。冬のこたつ布団。破った包み紙。ダンボールから半分顔を出している服。
母は神経質なくらいきれい好きじゃなかったのか?

あの日、携帯が25回鳴った。

仕事を終え、ロッカールームを出たばかりの時間だ。
同じ市内番号から始まるナンバーディスプレイには見覚えがなかった。だから出るのをずいぶん躊躇して、ショッピングモールの通用門でわたしは携帯を長いこと見つめていた。

「ああ、よかった、繋がって」女性の声で、わたしは民生委員をしているものだと言った。
「覚えてる? ほら、中学で一緒だった田中ミホコの母よ。あなたのお母さんちによく伺わせてもらってるんだけど、昨日も今日もドアを開けてくれないの。いままでそんなことなかったのに」
ミホコのことは覚えていた。わたしの絵をいつも褒めてくれてた子だ。あなたのようにうまくなりたいって言っていた彼女は、地元の美大に合格したと聞いた。
「不動産屋は、家族の了承があれば開けてくれるっていうし。何だかとても心配なの。なにごともなければいいんだけど。ミホコのツテであなたの番号を聞いてもらったの。これから、ここに来てくれない?」
「もう関係ありませんから」そう言いたくて、拳を握りしめて力を込めた。でも、勢いに負けて言えなかった。
母親の一大事に娘が断るなんて選択肢は、向こう岸にはこれっぽっちもなかったからだ。

電車とバスを乗り継ぎ自宅のある町に帰った。
不動産屋が鍵をあけるとそこには、遊園地のお化け屋敷みたいな真っ暗い闇が広がっていた。
そして吐瀉物の甘酸っぱい匂いの中で、母が真っ白い顔をして死んでいた。

警察が来て検死が終わり、今母は狭い部屋の中で柩に横たわっている。
火葬はあさって。それまでこのままだ。
正直いって気が滅入る。

民生委員の田中さんが、何をしていいかわからない私に代わって葬儀屋を呼んでくれた。
柩を用意してあとは火葬だけというプランがあったので、わたしは「それでお願いします」と言った。
「でも、ほんとにお葬式もしないの? 親戚とか、知らせるひとはいないの?」と田中さんは言う。
母の兄は昔から行方不明と聞いていた。会ったこともない。わたしは、別れた父も、別れた恋人も連絡先を知らない。
遅番で店にいるスタッフのミドリさん以外に、連絡するところなんてどこも思いつかないのだ。

お湯の出ない風呂場で化粧を落とし、浴槽にゴミを追いやって、毛羽立った畳に腰を下ろす。
乱雑なタンスの引き出しから、預金通帳と現金を見つけた。どうやら数ヶ月前まではなんとか仕事してたらしい。振り込み先は近所にあるスーパーの名前。給料日に全額引き出し、タンスに突っ込んでいたんだろう。
おかげで火葬くらいはできそうだ。あとはゴミ処理を頼んで部屋を解約しよう。わたしはもうここへは戻らない。

おかあさん。

少しずつ人間は死んでいくんだね。わたしがまだここにいた頃から、おかあさんはもう、死に向かっていたよね。
だから、ずいぶんゆっくりだったよね。
今はホッとしてる? わたしはホッとしてる。苦しいのにずっとこうしていたってどうしようもなかったでしょう?
ときにはわたしに向けた恨みごとの、何千倍もの恨みつらみが、病巣のように蝕んでいたのは知ってる。けれど、わたしにはどうにもできなかった。

田中さんは、少しわたしを責めたよ。
親子なのにって。
でも、親子だって別の人間だよ。
わたしはそれを分けあったり癒したりできない人間だった。

タオルケットをかぶって、横になったけれど、どれだけ洗濯してなかったの?
おかげでなかなか眠れずに、わたしは母の顔を覗き込む。
あんなに苦しそうに見えたのに、今は。
少しだけ、少しだけ、笑っているように見えるよ、おかあさん。

身体からも。病巣からも自由になった母の魂が、少しだけ軽くなって、部屋の中をふわふわ漂っていた。




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posted by noyuki at 13:31| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ミドリの森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月09日

「ミドリの森」6 ミドリ  「ウソツキドリ」

「ウソツキドリがさ、いつのまにか、ここからいなくなったんだよね」
よりママが自分の胸に指をあててそう言った。指のあいだからタバコの煙がふわっとひとすじ昇っていく。

ミドリ以外の客はいない。カウンター席もたったふたつのボックス席も空っぽだ。
仕事の帰りに滝のような夕立が降ってきて、折り畳み傘では肩もくるぶしもずぶ濡れになった。それでこの古びた店に飛び込んだのだ。

よりママは痩せぎすで、きついパーマの髪は明るい。皺だらけの顔なのにつけまつげだけが異常に元気だ。もう何十年この店を続けてるんだろうか?
順番にカラオケを入れて、記憶にもないような古い曲を歌う常連客も今日はいない。
新しいボトルを開けて、口数も少なくウィスキーを飲む店内には、外から聞こえる滝雨の音しか聞こえなかった。

「ウソツキドリ?」
「そう、ウソツキドリ。今思うと、あれはウソツキドリだったわ。いたときは、なんにも気付かなかったけどさ」
「勝手に、よりママに嘘をつかせてたってこと?」

よりママは、深く煙を吐いた。

「まあ、そういう感じかな?」
いや、ちょっとちがうかな?  そう言いながら、勝手にウィスキーを足して、大きな氷をぽんといれる。
氷は大きすぎて、グラスがなみなみになる。まあ、いいか。これくらいだと薄くならない。

「ウソツキドリがずっとわたしと男を喰いちらかしてたのよ。気づかないうちにね」

こんな男とやる気なんてない、って思っててもさ、気がついたらやっちゃってんだよね。
誰でもよかったわけじゃなくって、でも、雷に打たれたみたいになってさ、電気が走ってどくどくするの。
だからわたしは、人を好きになるときって電気が走るもんだって思ってた。
こころって頭じゃないんだ。こころはこころで勝手なことするもんだって本気で思ってたの。
でもそうじゃなかった。

今になってわかるわ。
あれはウソツキドリの仕業よ。

きっと、いろんな見えないところを喰いちらかしてたんだろうね。
ちょっとした隙に、なんかどうしようもなくなって、悲しくなったりするの。ほんとに好きかどうかわかないんだけど、もっとわたしを見てほしくってズキズキしたり、もう、いてもたってもいられないくらいになって、なんで閉店まぎわに帰っちゃうの?  最後までわたしといてくれないのは誰かのところに行くから? ってふつふつ腹がたったりしてさ。帰るってのを、鍵閉めて押し倒したこともあった。結局待ちくたびれた女がやってきて、ドアバンバン蹴たくって、それどころじゃなくなったんだけどね。
伝票だって、ずいぶん書き換えたのよ。今考えると笑っちゃうけど、きらいな男の伝票に好きな男の飲んだ分をつけていったりするのよ。
でも、そんなことしたって一緒、ウソツキドリは勝手に飽きて、勝手にどこか行っちゃうの。

ある日、羽振りのいい男が、単なる見栄っ張りの浪費家に見えたりするの。
横顔のきれいさに惚れたはずなのに、なんだろ、このナルシストって思ったりしてさ。
すーっと、冷静になると、みんなつまんない男で。
もうどうでもよくなっちゃうの。自分でもびっくり。
ウソツキドリがいなくなると、なんの感慨もわかないのね。
なんであんなに好きだったのに、こんなに見下してしまうんだろう? あの気持はどこに行ってしまったんだろうって、もうさ、愕然よ。

そのうち、ウソツキドリはわたしのところにはもう戻ってこなくなってしまった。
いなくなったら、よくわかる。
さみしいもんよ。
もう、あんなに怒ったり悲しんだりしなくていいんだもん。
ほら、ここに来る人たちってさ、みんな大昔の恋の歌を歌うじゃない。
あんなの聞いたってさ、ああ、この歌作った人たち、みんなウソツキドリにやられてたんだね、とか思ってしまうだけなの。
平和っていえば平和なんだけど。
なんか、毎日が平べったい感じになっちゃったのよ。

ミドリはロックを飲み干した。ほとんど溶けていない大きな氷だけがグラスに残った。
「ちょっと待って」って、よりママは洗い場に入っていく。
「干し魚を焼いてあげる。ウソツキドリの好物よ」
台所から声が聞こえた。

ミドリはもう一度LINEを見る。
既読がついてるのに返信はない。
「雨がひどくて、ひとりじゃ帰れない。迎えにきて」
もう一度メッセをいれる。
今度は既読はつかない、いつまでたっても既読がない。

ボックス席に移動して電話を入れた。
15回まで数えた。

「明日は早いんだ。もう、寝てたよ」
男の声がそう言った。
「もう、飲み過ぎて歩けない。ねえ迎えにきてよ」
今度は沈黙。

そして男は電話を切る。
だけどミドリは知っている。
断れない男なのだ。

「迎えにこないと、隣にいる男とやっちゃうよ」

LINEにそう入れる。
既読はすぐにつく。
男はベッドから起き上がり、服を着替えて、車を出すだろう。
わたしがゆっくりと薄手のコートをはおる間に、男が支払いを済ませてくれるはずだ。

家にあげて、抱きついてしまえばいい。
でも、その頃には、記憶の一番奥にある、誰にも言えない嫌悪感がわきあがってきて、またわたしはセックスを拒んでしまうのかもしれない。

ウソツキドリはずっとわたしの中にいるんだろうか?

目をつむると、そこには暗い沼があった。
泥沼だ。
わたしの足はいつも膝まで泥沼につかったまんま。だからまっすぐに歩けない。
そしてウソツキドリも男も、みんな泥沼に足を救われて身動きが取れなくなってしまうんだ、きっと。

何日か前、ミドリの仕事場のロッカーに「うそつき」と書いてあった。
ひきずるような血の文字にゾッとした。
消去法で考えれば、それが誰の仕業かなんてすぐわかる。

そしてゾッとするような血文字のカラクリも思いの外かんたんにわかった。
使用済みの生理用ナプキンがロッカーの前に転がっていた。

ねえ。人を恨んだりできるのはけっこうまっすぐなことなのかもしれないね。
恨まれたって、わたしが傷つかない。
誰かの恨みや怒りまで、わたしは引き受けられないもの。

もっともっとこわいのは自分だ。
どこまで壊れていけば、生きるのをやめられるんだろうか?
そう思いながらわたしは今も生きているんだよ。

よりママが干し魚を焼いてもってきてくれた。
つまんで口に入れられるくらいの小さな干し魚だ。

その魚に手をつけようとしたら、ドアが開いて、傘を折りたたみながら男がようやくやってきた。
「なんだかいい匂いだね」
そう言って男はにこやかに笑った。


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posted by noyuki at 21:25| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ミドリの森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月20日

「ミドリの森」5 サトミ 2

わたしは、何を与えられて、何を与えられなかったのだろうか?
ときどきそのことについて考える。

 ミドリさんは話術の天才だ。すてきな話し言葉でお客さまをいい気分にさせてくれる。
奈津子さんはアートの天才。ちょっとした大胆なデザインで人を魅了する。
ふたりとも「ネイルサロンドルチェ」にはなくてはならない人たちだ。

だけどわたしはどうだろう?
そのどちらの技術があるとも思えない。いつも失敗しないようにドキドキしてる。
顔は地味だし、おしゃべりもできないから、いつまでたっても存在感がない。
あからさまに不満を言う人こそいないけれど、満足度は一番低いんじゃないかと思う。
「まだまだ若いんだから、ていねいに仕事することだけを心掛ければいいのよ」とミドリ先輩は言うけれど。彼女の本音はいつも深い森の中だ。

中学までは勉强だけはできた。そして高校は進学校に入ったのに、ついてゆくのもおぼつかなくなってしまった。
環境は残酷だ。だんだん疎外されていくようで、誰とも口を聞けなくなってしまった。両親は、せめて辞めないで卒業してくれればいいと願った。
卒業できる出席日数を計算しながら、仮病を使ったり、学校で石のように座ったままだったりを繰り返すのは苦行だったけれど、転校や退学は、もっと気の遠くなるような労力を必要としている気がした。
同級生たちはほとんど県外か近くの都市の大学に行った。わたしは冬にひどい気管支炎を起こして受験もままならなかった。もっとも、気管支炎でなくったって、行けるところなんてなかっただろう。
両親は、それでいいじゃない、専門学校にでも行って、近くで働ける技術があればそれで十分だわ、と言った。
巣立ちのできないひなのままでいて欲しいのだ。両親の中ではわたしはまだ、社会にうまく適応できなくて取り残された娘で、わたしはずっとそれに甘んじている。
高校を卒業したとたん頭の中がクリアになって、それなりに友だちもできたけれど、それでもわたしには、仕事の帰りにいっしょにお茶を飲む友だちなんて誰ひとりいないのだ。

わたしは二人に比べていろんなものを持っていない。
そのことがときどきイヤになってしまう。
「家に帰ればごはんができてるなんて羨ましい」って奈津子さんは言うけれど、ごはんと家族以外に何もない人生を、奈津子さんには想像できるだろうか?

お客様の途切れた昼下がり、そんなことを考えていると、奈津子さんの彼がお店の前を通った。180センチ以上のスーツ姿の端正な顔だちが、ちらりと中を覗いて会釈した。歯磨きのコマーシャルに出てくるようなきれいな白い歯。
今日は奈津子さんは非番でいない。平日にミドリ先輩とわたしがいるってことは、奈津子さんは休みなのだ。
すぐにそのことに気づいたらしく、そのまま彼はだだっ広いフードコートの方に歩いていった。

しばらくしてから、ミドリ先輩が席を立つ。
「ちょうど人も途切れたし、早いけれど食事してくるわ。ああ、おなかすいちゃった」
そう言って、お財布だけ持ってそそくさと店を出ていった。

そのときふいに、最近ミドリ先輩と奈津子さんの会話がないことにあたりがついた。

備品を揃えるふりして少し顔を出してみると、テーブルに座っている彼に挨拶しながら、「SUBWAY」のトレイを持って隣に座るミドリ先輩が遠くに見えた。
静かに凛とした佇まいの、いつものミドリ先輩はそこにはいない。
獲物を狙うカメレオン。静かに巻きつく白い蛇。彼の二の腕に漆黒のネイルアートの指が魔女のように突き刺して、ケラケラと笑っている。
嫌悪感のかけらもなく彼もまた笑っている。
そうか。彼はもう、たぶん、ずっと前から巻きつかれてしまっていたのだ。

最近ミドリ先輩と奈津子さんははよそよそしい。
奈津子さんが遅番の日に備品の片付けができてないって、ミドリ先輩はわたしにこぼすのに、本人には何も言わない。
土日に全員出勤したって、なんとなく会話が弾まない。

わたしの知らないところで何かが起こってるのだ。

そうしてわたしは「ごはんと家族以外のなにか」に飢えてるわたしが、ひそかに心踊らせていることに気づいてしまう。


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posted by noyuki at 14:07| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ミドリの森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月21日

「ミドリの森」4 ナコ2

「あなたのパートナーは、正直、おすすめできない方だとわたしは思います」

婦人科の年配の女医は、わたしの顔を見ながらそう言った。

「あなたが感じている違和感は、性行為感染症によるものです。薬を処方しますのできちんと飲んでください。この病気は男性は媒体となるだけで発症しません。つまり、どこかの女性の病気が、あなたのパートナーを経由してあなたに来たというわけです。彼にきちんとそのことを話して、病院へ行くことを勧めてください。言いにくいとは思うけど」

年配の女医はファウンデーションとまゆずみだけの化粧で、のっぺりした顔だった。地味だけど髪にはお金をかけている。ゆるやかなパーマで、根元まできれいな栗毛色。そして肌には健康的なツヤがあった。 わたしを責めていないやさしい目だと思った。多分、こういう場面に馴れている目。
だけども、わたしは目をそらす。

「わたしの所に連れてくればいい。どちらも完治しなきゃだめなの」
わたしはうなずいて診察室を出た。

教えてなんかやらない。

ナコと呼んでくれる人をなくすのは悲しかったけれど。
こうしてひとりで病院まで出向いた自分が惨めで、それは、あの人がすべて蒔いた種なのだと思うととても腹立たしかった。
一方で嫉妬というむつかしい感情をわたしは処理できなかった。許すとか許さないとかもわからないし、第一、ほかの女の人ともセックスしてるのが、生理的に嫌なのか嫌じゃないのかさえ判断つかなかったのだ。
あの人がほかの人とセックスするのはどうなのだろう?
結婚してるわけじゃないから、それでもいいはずなのに、それを想像するととても気持ち悪かった。汚らしい感じがした。
これが嫉妬というものなのかもしれない。
でも、汚らしいと思うのは嫉妬とは違うような気もする。
どっちでもいい。
考えているうちに、もう男と会うのはやめようと思った。

スターバックスの一番奥の席で、わたしは男の携帯電話の番号をブロックしてから削除した。

浮気の相手が誰だか心当たりもつかない。
たまたま誰かと一夜限りの間違いだったのかもしれない。
でも、その一夜を許してしまえば、ずっと苦しい夜が続く気がした。

好きならばちょっとくらいの不都合を許してもいいというのは、間違った道の岐路に立つようなものだ。ひとつのことを許すとどんどん違う道に迷い込む。とちゅうで気づいても引き返せない。
わたしはそのことを母親からイヤになるくらいに学んでいた。
間違った道の岐路に立ったときは、最初の一歩を絶対に踏み出してはいけないのだ。

私はそれをやらない。

母と同じ失敗はしない。

なのに 自分から別れるというのはすごく心もとないものだった。

別れを切り出されるときは、何も決断しなくていい、ただ受け入れて泣けばいい。

だけど、自分で決めるときは、ほんとうにこれでいいいのかと何度も思い返して悩む。

いつもそうだ。

自分で決めたことが自分にとって一番正しいと思うことすら学べないままに、私は大人になってしまっていたのだ。


””””””’’’

そのあとに男がどういう行動に出たか、私は知らない。

ネイルサロンはショッピングモールの2階にあるので、そこに男が来るのではないかと思い、1週間も仕事を休んでしまったからだ。

ここに来て私がいなければ彼はあきらめる。着拒とこれですべてを彼は理解する。深追いはしない。そういう確信が私にはなぜかあった。

店長のミドリさんはよほど仕事が好きなのか、帰ってもやることないのか、少々無理なスケジュールでもこなしてくれる。風邪をこじらせてと言ったら、ちゃんと治るまでゆっくり休んでいいと言ってくれた。

そして同僚のサトミには、なぜか、妊娠したかもしれない、と嘘をついてしまった。
サトミの家と通院する婦人科が近くて 、道端で会ったときの言い訳にしたかったからだ。あとは、間違いだったとか、適当なことを言えばいい。

幼い頃からの作り話が得意だった。この程度の嘘はなんでもない。
作り話はいつだって私を守ってくれた。私の思い出したくないものから、いつも私を遮断してくれた。

なのに、婦人科でばったりと出くわしたのは、なぜかミドリ先輩の方だった。

受付にいる見慣れた後ろ姿に気づき、とっさにトイレ角に隠れてしまう。この時間だと、遅番の出勤前に立ち寄ったのだろう。

ちょうど会計を済ませているところだった。「とちゅうで辞めずにきちんと最後まで服用してください」と言いながら処方箋が手渡されているところだった。

私が処方箋を渡されたときに言われたのとまったく同じ文言。

ただ、それだけ、ただ、それだけなのに。
記憶のレコーダーが勝手にぐるぐると逆回転してしまう。

彼が「お店が終わったら食事に行こう」とネイルサロンに立ち寄ったときの、ミドリ先輩の愛想のいい笑顔。
その次に彼が店の前を通ったときに、ミドリ先輩が先に気づいて教えてくれたこと。
また、その次に彼が立ち寄ったときの、ふくみ笑いのような笑顔。

あの笑顔の裏に隠されていたストリーが、どんどん頭の中にできあがってしまった。

断片を繋げておはなしを作るのが小さい頃から得意だった。
いつまでもどこまでも、広がるおはなしを作っていった。

嘘はいつもわたしを守ってくれた。

本当のことは残酷すぎる。
だから私は、好き勝手に頭に浮かぶ作り話だけを愛していた。

なのに、その「作り話」までもが、わたしに背を向けて、遠いところまでひとりで歩いていってしまう。


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posted by noyuki at 22:27| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ミドリの森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月09日

「ミドリの森」 3 ナコ

早川奈津子という自分の名前が嫌いなわけじゃない。
だけど、ナコと呼ばれるのが一番好きだ。
幼稚園の頃に母と別れた父はいつもわたしの事をそう呼んでくれていた。

男を好きになるのに時間はかからなかった。
「どう呼んだらいいの?」と尋ねてくれたから。おかげでわたしは「ナコ」という名をもう一度手に入れられた。

母が仕事で遅く帰ってくるまでのあいだ、絵を描いてすごした。太陽の絵、花の絵、キラキラ光る虹の絵。その下に広がる平原。日没のあとに少しずつ忍び込む薄紫色の闇。
それからわたしは絵を繋げて、おはなしを作る。ここから先は紙もクレヨンもいらない。わたしの頭の中の世界との対話だ。
わたしはどこにでも行けたし、何にでもなれた。魔法使いの少女だって、小鳥だって、いじわるな魔女にだって。

小さなキッチンの孤独に押しつぶされそうな夕暮れでも、集中すれば世界はキラキラといつまでも広がっていた。

母は、わたしの絵を一回でも見たことがあっただろうか?

仕事と家事に追われていたヒステリックな母が、ときおり夜遅くに声を潜ませて誰かと電話で話している。それに気づいたのは中学生の頃だ。

低く透き通った、艶やかな笑い声。

わたしが卒業して働くようになったら、母はその人と一緒になれるのかもしれない。そんなハッピーエンドを想像していた。

高校卒業後にネイルの学校で学び、わたしは今のお店に入ることができた。
だけどもハッピーエンドは来なかった。その頃には、長年の不倫の果てに、母は相手の家族からの嫌がらせに追われることになり、酒量ばかりが増えていった。

同じ町のこんなに近くに住んでいるのに、保証人の印鑑を押してもらったあとはすっかり足が遠のいた。住んでいたアパートに今もいるのかどうかわからない。最初の数回電話を無視しただけで、もう携帯に着信が入ることもなくなった。

幻覚や妄想や虚言に翻弄されていた母は、わたしの中で静かに死に向かっていく途上にいる。
もう、いいんだよ、と思う。
苦しい思いを引き摺って、彼女の心は治せない。何度も自傷を止めて悪かった。
そんなに苦しいなら、終わらせていいんだと思う。

捨てられることには慣れている。あんなにかわいがってくれた父さえ私を捨てたんだもの。
母親は家を出ていくときに私を見捨てるのか?って叫んだけれど、それはまったく違う。

あんたの方が、ずっと先にわたしを見捨ててたじゃないか。

(続く)



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posted by noyuki at 22:11| 福岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ミドリの森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月12日

ミドリの森 2

ミドリ

目覚めたら、天井の色がいつもとちがってた。
私の部屋の木目の天井ではない、白いクロス貼りではないか。どうして私はこんなところにいるんだろう?
つぎに、誰かの気配で自分が目覚めたことに気づいた。

カラダの中からクチュクチュって音がする。私の水音だ。知らない指先が、その水音を確かめているのだ。
そして、確かめ終えると、今度は私をこじあけていった。
自分でも意外なくらいスルスルと、ヘビが私の中に滑り込んでいくのがわかる。
薄暗いトンネルをスルスルスルスル。トンネルの壁が気持ちいい。

と、ここでようやく目を開いてみる。
私が目を開いたのも気づかずに、私の上で動いている男がいる。
しばらくしてやっと気づいて、首すじと耳たぶのあいだくらいの場所にキスをしてくる。

誰だっけ?
どうしてこんな所にいるんだっけ?

トンネルの探検が続くあいだ中、私は記憶をたぐっている。
快感は鈍く、目覚めないままで、長くは続かない。
だけど、嫌ではない。
ひさしぶりに私が欲しがっていたのが自分でもわかる。

そうだ。
ショットバーでしこたま酔っ払って、この男の部屋にいっしょに帰ってきたんだ。
「やろうよ」って、たぶん、私だ。そうだ。それだけは覚えている。

男の部屋にふたりで倒れこんで泥酔して寝てしまって、明け方に私たちはこんなことをしてるわけだ。
そこまで記憶が戻ったところで、ああ、そうか、と思っていると、男の動きが激しくなってそれからピタリと止んだ。荒い息遣い。
顔は覚えている。好みの顔だ。けれど名前を知らない。性格もなにも知らない。この男と出会ったときは、わたしはもうしこたま酔っ払っていて、それでも家に帰る気がなくて、誰かと一緒に夜をすごすことばかりを考えていたからだ。

男が、シャワーを先に使うといいと私に言う。デッドラインは8時だから、あと2時間。コーヒーでも煎れるよ、と。

つまりは、男はこのあと仕事に出るわけで、その時間にここから追い出されるという意味だ。土曜日だけど、休日出勤なんだって。
家に帰るのもおっくうだし、バッグのポーチでありあわせの化粧をして、そのまま仕事に行くことにした。
外に出てみると、職場のあるショッピングセンターがものすごく近かったことに気づいた。
かなり早い出勤になるけれど、それは仕方ない。

ああ、またやってしまった。
ほんとはセックスなんて大嫌いだって思っているくせに、月に1、2度、なにかの拍子に誰かとやりたくて仕方なくなる。、この男とははじめて。そもそも、昨日はじめて会って、はじめて口聞いたくらいなんだから。

誰にも一生言わないって決めたことがある。
私は一生、そのことを喋らない。
そして、あの男はもう、この世にはいない。
もう誰もそのことに触れることはできないのだ。
たしかにあった事でさえも、そんなふうにして、なかったことにしてしまえるだろうか?
してしまえればいいと、心底思う。だけど実際にあったことを、なかったことになんてできやしない。誰にも言わなくったって、私は自分がそれで幸せになれるなんて思えない。
人生はおもしろくない。むしろ、つらい。いつ死んだって、いい。その瞬間私は、ああ、やっと終わったって思うにちがいない。

そうして私は、月に一度くらい、誰でもいいから抱かれたくなってしまう。
一体私のカラダは何を望んでいるのだろう?

私が早く着いたのでサトミが少し驚いた顔をした。
その他は、日常は何も変わらない。
わたしはまだキレイだし、若い時のままのプロポーションを維持している。夜ごとの酒まみれにしてはいい成績だ。わたしは客にも男友達にも羨望の目で見られる。

歓楽街に向かう男たちは、駅の構内よりも近道になるという理由でショッピングセンターの二階通路を横切ってゆく。
そして目の端で、顔見知りの男たちは。私がネイルサロンに座っていることを確かめる。
ときには、自分のいる店を耳打ちしてゆく。

この場所にいるかぎり、飲み友達に事欠かない。
だからわたしは、本店よりもこちらの店の方が好きなのだ。

(まだ続くかもしれない)


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posted by noyuki at 20:58| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ミドリの森 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月23日

「ミドリの森」 1

* サトミ


朝、出勤するとミドリ先輩はもう出社していた。キラキラ光るネイルの並んだショーケースの上を乾いた布で熱心に拭いている。
あれ? わたしが早番でミドリ先輩が遅番では? 一瞬考えて、壁のシフト表を見ようとすると、ミドリ先輩が顔をあげた。
「あ、びっくりした? ごめんね。早く来すぎただけなのよ」
あいかわらず隙のない化粧だ。塗りすぎて見えない透明な肌に、これまたシアーなブラウン系のチーク。今日も毛先のカールまで完璧。そして目を細めた笑い顔はどこまでも優しい。
「でも先輩今日遅番なんでしょ? 夜の10時まで12時間もお店にいるんですか?」
あ、そっか、とミドリ先輩は今更気づいたかのようにつぶやく。
「お昼休みを長く取らせてもらうから。早川さんが風邪だし、休日に二人だけだと大変だろうし」
早川さんは数日前から体調が悪くて休みを取っている。私には妊娠したかもって言ってたのに、ただの風邪だったんだろうか?
「さ。日曜日で忙しいけど、サトミちゃんもがんばってね」
そう言ってミドリ先輩はフリスクをいくつか振ってくれた。

ショッピングモールの一角にあるネイルコーナー。
そこがわたし達の仕事場だ。お店と呼ぶほどのスペースじゃない。二人座れば満杯のオープンスペースだ。本店のサロンと別にこんなところで? と思ったけれど、飛び込みのお客さまが多くて、まあまあ繁盛してる。ただし単価は低めだ。

わたしはまだ新人でこっちで若い人相手くらいしかできないんだけど、ミドリ先輩はちがう。すごいアートなネイルだって作れるし、本店で指名されることも多い。
だけど、ミドリ先輩は本店よりもこちらが好きだって言うし、土日はレジ閉めもあるのでこちらに来ることがほとんどだ。変わってるって思う。
ここは人の通りがうるさくて、ネイル作ってても、しょっちゅう誰かが覗いていくし、一番安いのばかり学生がやりたがるようなお店だ。何よりも本店とは格がちがう。
なのに「密室って苦手なの。こっちの方が広くてざわざわしてて安心するの」って言う。
おまけに安いヤツでもすごく丁寧にしてくれる。爪のカタチを褒めて、初めての人にもきちんとお手入れ方法とかも教えてくれて。
おまけに私達スタッフにもいつも優しいし、気遣いの人で、ほんとすごいなあって思う。
ある日、そう言ったら「あら、コツさえ飲み込めば簡単なことなのよ」ってミドリ先輩は笑った。

「それってすごく簡単なことなのよ。自分が言いたいことを言うんじゃないの。相手がなにを言って欲しいかを考えてそれを言うの。だって、お客様っていい気分になりたくていらっしゃるのだから。それを叶えてあげればいいだけなのよ」

それを聞いたとき、はじめてミドリ先輩のことが怖いと思った。
いや、それは客商売としては当たり前なんだけど、ミドリ先輩は少なくともそんなふうには見えなかったのだ。それで、もしかしたら、この人怖い人なのかも、ってはじめて思った。

それからわたしは、夜寝る前とかに時々ふっとミドリ先輩のことを思い出すようになった。そして思い出すと、心に小さなトゲがつきささってるような気持ちになってしまうのだ。
あんなに優しくて、すごくステキなのに。
ミドリ先輩は、わたしに対してももしかしたら、「わたしが言って欲しいこと」を言ってくれてるだけなんだろうか?

(続くかもしれない)


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