朝ドラ「あんぱん」で戦争の場面を見るにつけ、我が家の「口伝」で聞いていた「戦争」を思い出します。
ドラマ「あんぱん」の中では、戦時中に生きる人が、ときに少しばかりの疑問を抱えて生きているようにも見えますが、実際に我が家の年長者がそうだったというわけではありません。
むしろそれは「言語化できないもの」として、長年家族が抱えたままになっているもののように思えます。
言語化できぬまま年長者たちは亡くなり、わたし自身にはそれを伝える意思もありませんでした。このままわたしが口を閉ざしていれば、その些細な物語は永遠に伝えられないままなのでしょう。
それでこの機会に、断片的な物語を記していくことにしました。
書いてみなければわかりません。「ただの伝え聞いた家族の物語」が伝えるに値するものなのか、そうでないのか、わたしにはわかりません。
ですが、取るに足りないものであっても、わたし自身がそれを伝えたいと思えばそれは伝えるに値するものなのかもしれないとも思っています。
それでは、いきます。
* * *
長男:慶太郎 一家の長男の慶太郎は出征して亡くなった。
家の仏壇には色がくすんだ「靖国神社の写真」が掲げられていたが、敢えて誰かがそれについて説明することはなかった。
慶太郎の名前が出るのは、仏壇とも戦争とも切り離された場面のみだった。
「慶太郎は勉強も運動もどちらもよくできていた」
大祖母は時々そう話した。
慶太郎は歴史ある進学校に通っていたが、勉強は常にトップクラスであった。次男である進次郎は、学校で慶太郎と比べられて閉口していたという。
当時中学生だった進次郎は食べ物の好き嫌いも激しく、集中力もなかった。後述するが「ものごとをとちゅうで放棄する」ことに長けていた。そういう言葉があれば「発達障害」に分類されていたのかもしれない。
「おまえは本当に慶太郎の弟なのか?」
教師は進次郎になんどもそう尋ねたという。
その長兄の慶太郎が出征することになった。
出征は夜の行軍からはじまるという。夜間に宿泊所から汽車の駅まで歩き、そこから汽車に乗る。
大祖母は「本日の夜に行軍が行われる」との情報をどこからか入手し「あの日は一緒に歩いた」とわたしに話してくれた。
本当に一緒に歩けたのか、それとも後ろからただついていったのかはわからない。大祖母は華奢で質素な身なりで性格も前に出るところがない人だった。
だから、夜中に「出かけて一緒に歩いていった」という記憶は少し違和感もあったのだ。
それでも彼女は歩きたかったのだろう。出征する息子と一緒に。
彼の帰りをもちろん大祖母は待っていたはずなのだが、そのあたりの話はない。
そうして、冒頭の「靖国神社の写真」となるのである。
大祖母はわたしにお手玉を教えるときに軍歌を歌った。
ここは、お国の何百里
離れて遠き満州の
赤い夕日に照らされて
戦友は野末の石の下
わたしは「お手玉の歌」の意味を考えることもなかった。
大祖母はいろいろ思うことはあったのかもしれない。
それでもわたしたちはそのことについては何も話さなかった。
それは「言語化できない物語」であって、それをどういうふうに伝えればいいのか、大祖母は知らなかったのかもしれない。
そしてわたしはその「言語化できない物語」を咀嚼するにはまだ幼すぎた。
次男:進次郎 進次郎は大祖母の次男。その下に光三郎という三男がいた。娘もひとりいたらしいのだが幼少期に亡くなっており、娘の記録はない。
進次郎と光三郎は戦後の時代を生き抜いて、平成の時代に寿命を迎えて亡くなった。
進次郎は兵役にはつかなかった。
飛行機乗りに憧れて、試験を受けたが合格できなかったのだという。
ひどい蓄膿症が原因だったとのことだが、もしかしたら蓄膿症だけが原因ではなかったのかもしれない。
戦後、進次郎は、大学に行く機会に恵まれた。
語学に長けた進次郎は、熊本の大学の「中国語学科」に入学し、そこも飽きてしまい3ヶ月で下宿を引き払って帰ってきた。
「下宿のおばさんが、なんで荷造りしよらすと?て聞いたから、もう辞めて家に帰りますと言ったらすごくびっくりされたよ」
進次郎はまるで武勇伝のようにその日の話をするが、まわりにとって青天の霹靂だったに違いない。
大祖父も大祖母も厳しく叱責することはなく、進次郎は福岡の「予備校」なるところに通い、彼は翌年外国語専門学校に入学した。
偏食でなんでも長続きしない進次郎であったが、英語を学ぶことはそんなに苦ではなかったらしい。戦後に、英語が必要な場面はいくらでもあった。
就職時、進次郎は学校の推薦により地元の一流企業の試験を受けることとなる。
ところがここでも進次郎はやらかしてしまった。
試験はむつかしく、午前中が終わった時点で嫌になってしまったのだという。なにも言わずに進次郎は帰宅し、試験会場はちょっとした騒ぎとなったらしい。
そういうわけで進次郎は就職はせずに、結果家業を継ぐことになった。
ほんとうに進次郎がなにをしたかったのかはわからない。
慶太郎が亡くなったことで、実家を継がなければと思ったのか。それともなにも考えずに風に吹かれるように生きてきたのか。
今となってはわからないが。
彼は「少しだけ自由に、少しだけ自分の思うままにやった方がいい」という空気を常に備えていたように思う。
忠霊塔(チュウレイトウ) 「チューレイトー」という言葉は幼い頃から何度も耳にしていた。
母がよく「今年もチューレイトーに行く」と言っていたからだ。
忠霊塔は市内の小高い山の中腹にあった。
交通の便はよくないが、おそらく臨時のバスが出ていたのだと思う。
毎年母は忠霊塔に行き、「慰霊祭」というものに参加していた。この家に嫁に来た母にとっては、まったく面識のない慶太郎のための慰霊祭だったのだと思う。
慰霊祭では「おおきなおまんじゅう」がふたつお土産として配られていた。紅白饅頭ではない。ミントグリーンみたいな色の大きなおまんじゅうだった。
母もまた「忠霊塔」についても「慰霊祭」についてもわたしに語らなかった。
教えてくれればよかったのに、とも思うが。母にとってもそれは「誰かのかわりの仕事」であって、伝えるべきことはなかったのかもしれない。
戦争についても、その当時のことについても、誰も積極的に伝えようとはしていなかった。それは市井の人にとっては忘れたいことであり「伝えるべき歴史」ではなかったのだと思う。
進次郎とわたし 進次郎は映画が好きで、お正月には2館かけもちで一日中出かけているような人だった。
テレビの洋画のロードショーもほとんど見ていたと思う。彼が好きなのはアメリカの洋画で、わたしは「洋画の音楽のレコード」をもらった記憶がある。
コダックのカメラや最新型のステレオ。
進次郎はそういった最新型のものを愛した。
60代後半には妻とふたりでヨーロッパ旅行に行き、フランスの蚤の市では一生懸命価格交渉し、まったく通じなかったらしい。イギリスでも英語を使ったが、進次郎の日本式の英語はやはり通じなかったという。
添乗員つきのツアーでそれほどの不自由もなく、買い物を夫婦で楽しみ帰国し。
その後に癌が見つかり2年の闘病ののちに進次郎は亡くなった。
一族の中に「お花さん」と呼ばれる、進次郎よりも年上の女性がいた。
どういう親戚であるかもわからないが、お花さんは堂々としていて、いつも言いたいことをずけずけと言った。わたしは彼女が苦手だった。
お花さんの家は城下町の中でも「帯刀を許されていた」ひとかどの職人であったらしい。お花さんには子供がなく、気のいい養女が婿を取り、家を継いだ。
進次郎はよくわたしにこう言った。
「あかつきは、お花さんに似ているなあ、性格がよく似ているよ」
わたしはそう言われるのが嫌いだった。
気が強い醜女のお花さん。彼女のずけずけには毒があった。
あの、お花さんにわたしが似ているなんて。
進次郎にわたしはああいうふうに見えているのか。
そう思うととても嫌だった。
また進次郎はこうも言った。
「あかつきが自分くらいの年になったところを見てみたいなあ。
でも、その頃には自分はこの世にはいないだろうなあ。残念だなあ、ああ、残念だけど、見てみたいなあ」
進次郎の亡くなってから、もうずいぶん時が経った。
わたしは今は「進次郎が想像していたあかつき」になれたのではないかと思っている。
財を成したとか、性格が成熟したとかではない。
わたしは「好きなことを言い、好きなやり方を選ぶ術」を身につけた。
それは、進次郎が、自分にもわたしにも、ずっと望んでいたこと。
わたしはこれを、進次郎から受け継いだとても大事なことだと今は思っている。

ブログランキングに参加しています。